「71才の365日」12月24日(土)晴れ-7℃「東日本大震災」289日

*朝トレ:7時30分〜8時30分

玄関7℃は寒くないですよ〜。ウソでーす。ただどうせなら手加減せずに二桁へ、これも取り下げでーす。
今ぐらいの上下差が体にも馴染んだので丁度良いのです。はい! カラスの食前運動に目を遣りながら、強歩10本走15本都合4.0km B級メニューにて終了。倉井さん家のわんちゃんは解っていておとなしいが、つがいのカラスは大人げないな〜、今日から世の中は昨日から「3連休」わんちゃんの食事は1時間遅いよ! 我れにも行き会い人無しの帰路。



*清新な空気と、雑念の無い心で  「Merry Christmas」!

*Xmas card from CANADA(Nelson,BC) by Mr Mike Pozin

 昨日、カナダからクリスマスカードが届きました。我れの息子が高校生の時Nelson.BC のサマースクール(アイスホッケー)でお世話になり、その後とびとびの交流が続いてます。お世話になった「Mr.ポーズン」と奥さんはカーリングの親善大使として1990年姉妹都市青森県コーチングに来日しましたが、その時の交流は想い出深い物になりました。今日は、我れのアバウトな備忘録を手繰ってみたいと思います。

 青森の名士宅から突然の電話をもらい、予告無しにポーズンさんとの対話となりました。勿論我れの「ブロークンイングリュッシュ」ではありますが、以前にも何回かコンタクトは取っていましたし、青森のSさんの説明もあり明日の午後日光へ行きたいとのことでした。そして、その次の日には成田からの便で帰国したいと言うのが工程でした。

 当時、我の両親も健在、ただ、親父殿は湯治中で留守、お袋まだまだ元気でしたが、豪がまだロスで生活しているときでしたしポーズンさんが一泊すると言っても二人とも驚きはしませんでした。女房殿も久し振りですね(一度も会ったことは無いんですがね?)と言うことで一番忙しくなったのは我れだったような気がします。

 ポーズンさんご夫婦は、日本語は全くダメなのも分かっていましたのでそれは覚悟。当日、東武日光駅に我が迎えに、写真はいつも交換してましたので顔を見たらえらい懐かしさを覚えて、彼方も大喜びでした。ただ、ご夫婦にハグされたときは子供が親戚のおじさんおばさんに抱き上げられる格好になってしまい観光客の皆さんに拍手を頂いてしまいました!お二人とも大きいんですよ(揃って185cm と言ってました。因みに我れは161cm)、後で部屋の出入りに一々頭を下げ背を丸めていました。

 駅から我れの車に乗ってもらっても窮屈そう。我の英語は全くのブロークンでも、アバウトな性格も幸いして、単語を並べるだけの時々接続詞、で何とかコミュニケーションは取れるものです。我が家までの道順に沿って案内してしまいました。

 二荒山(神社)・輪王寺東照宮 の、二社一寺(従兄弟に殿堂案内者を紹介してもらいましたが東照宮を主に後はさらりと)、それから車で15分、当時「我がワーキングエリア古河電工の日光工場、主に銅を主とする合金の素材工場」当時でもアルミ工場と合わせて2,000人の従業員が居ました。我れは製造現場の、1管理監督者という立場でした。

 門前に車を止めて、工場の外観を一望しただけでした。とにかく明日PM13時には我も一緒に東武日光駅を発たねばならぬ工程表。またまた車に乗ってもらい、もう一つだけ欲張って我が家を通過していろは坂へ、行く先は言わずと知れた「華厳の滝」つららのある華厳の滝を観瀑台に立って「ワンダフル」と言ってくれました。
 カナダの人ですから寒いのは平気です。やっと我が家へ、女房殿が手ぐすね引いて待っていてくれたのでホット一息、狭い内風呂へ(青森は豪邸でしたから)お二人のお風呂が終わってから掘りごたつで乾杯!女房殿の手料理と当時幻の酒と呼ばれて珍重された「越乃寒梅」ポーズンさんも奥さんも美味しい美味しいと喜んで飲んでくれました。

 女房殿が用意しておいてくれたアルバム等も肴に、身振り手振りの思い出話、共通の話題なら単語の羅列でも充分通じます。我れの息子を、「つよし」と発音出来なくて、「てよし、てよしと」と呼んでかわいがってくれたこと息子に聞いてますのでそんな話にも盛り上がりましたが、団らんの会話の中で二つ困った言葉がありました。

 一つは、「クラゲ」を勧めるのに単語を辞書で引いてジェリーフィッシュ」とやっと伝えたら「奥さんがノーと」大きな声(こう言う時の欧米人ははっきりしてますからね)、でもポーズンさんが「チャレンジ」すると言うのです。すると、OK遣ってみなさいと言うんですよ! 奥さんも。

 此方は細かい注意なんか出来ないんだから固唾を飲んで見守るしかありません! 今思っても余り「こりこり感」を味わう、噛むと言う動作もなく直ぐのど元を通過させたように記憶があります。でもさすがなのは飲み込んだ後、にこっと笑って「グー」と言ってました。奥さんの拍手につられて我れら夫婦も拍手でした。でも、その後、二度とその皿には手を伸ばしませんでしたね。

 もう一点は、我れの息子はロス在住、娘は東京という報告に「豪」のホッケープレーヤーとしての素質が如何に高かったかという事を身振り手振りで話してくれて、足を折ってしまった後に報告がなかったことをホントに怒って居ました。

 ポーズンさんの報告で、息子ジェフが今休暇でスイスにスキーに行ってると言う話の中、スイスが「Switzerlando」「スィッツァランド」と発音が何としても解らず、「辞書を預けて指さし呼称」説明する方も聞く方も熱が入って喉が乾いてお酒が旨かったこと!

 午前1時も過ぎてさてお休みの段取りとなりましたが、 20年前の我が家はエアコンなど入って居らず丈の短い布団に電気毛布という仕様でよく寝られたのかどうか? 翌朝、せきもしてなかったし大丈夫みたいでした。 

 翌朝、朝食を聞いたら、ご飯の方が良いというので「鰺の開き」と「目玉焼き味噌汁」、お箸は上手に使っていました。 我れは当時、休日・旅行などでは朝からでもお酒欲しい方だったのでビールでも飲もうかと言ったら「越乃寒梅」おちょこでと中々乙な答えが返ってきました。

 我も今日は車の運転しないので一升瓶の底に少しだけ残っていた「越乃寒梅」を、おちょこについで乾杯をしました。奥さんにも勿論お聞きしましたが遠慮しますと言うことでした。

さてお別れとなっても、女房殿の方がハグは上手にこなしていました。細尾からローカルバスで東武日光へ、浅草から当時は「箱崎町のシティーターミナル」へ、そして成田へ向かいました。

 この浅草へは、東京で学校終え不動産会社に就職して東京暮らしの娘を呼んで成田へ同行させました。 娘は一応英文科卒でも、実践の会話なら「お父さんの方がまだ役に立つね」。と褒め言葉? 今はどうかな?  成田ではコーヒーを飲みながら再会を誓って別れましたが、この約束は未だ、果たせて居らず、息子の豪は一度訪れましたが・・・実は、ちょっと後日談があったのです。

 息子がロスにいる頃盛んに薦められて何回目かのロス訪問に合わせて3人で行こうかという話は出ていたのですが、ポーズンさんの奥さんが我が家を訪れてから4年目に癌で「急逝」されてしまいました。  更に3年後「Mr.ポーズン」が再婚、彼の子供「二男一女」再婚相手のマリーンさんも「二女一男」の3人の子持ち、お二方は一気に6人の子だくさんになりました。 その後クリスマスカードや家族写真などは奥さんの「マリーン」さんが送ってくれてる見たいです。勿論宛名とサインには「Mike Pozin」の自筆で来ますが。

今回のメッセージにも、家族の動向がこまかく書いてありますが、マリーンのお父さんが今度の「一月に95才」になることや、孫達の可愛い写真が入っていました。 我はまた家族写真と単語を並べたご挨拶でも書きましょう。


*つたない備忘録にお付き合い下さった皆様にも 心からの 「Merry Christmas」! です!






*「東日本大震災」289日 


今日の一題 「河村流減税―市民が責任追う覚悟を」

地方自治体の活力は、「国民一人一人の自覚が産む」 {国民は声を上げ・行動することも厭わなくなった・後は責任も負う自覚だ} 大きな波は確実に起きている。「リーダーも認知できる」安易に烏合の衆にならずに「各自治体の足元を固めた上で手を携えよ」と「エール」と共に「注意も喚起」したい。 どっぷりとぬるま湯に浸かる「中央の政治屋さんも・お役人さんも・首を洗って待たせなさい」! 勿論「自身も首を洗って、さらしは一反切って下さい」! (keniti3545)


朝日新聞社

河村流減税―市民が責任負う覚悟を 河村たかし名古屋市長が公約していた市民税の減税条例が、おとといの市議会で成立した。これで来年度から、市民と法人の市民税が5%ずつ下がる。

 初当選から2年8カ月。河村市長は当初、唱えた10%減税を半減させて、ようやく市議会と折り合った。

 減税に向けて、市長は市議会と全面対決を繰り広げてきた。

 いったん10%減税を実現させたものの、市議会に恒久化を阻まれると、市議会の解散を求める署名集めの旗を振った。

 同時に、みずからも辞職し、2月の知事選と議会解散住民投票に出直し市長選を加えたトリプル投票に持ち込み、いずれも圧倒的な支持を集めた。

 さらに出直し市議選でも、自分が率いる政党「減税日本」を第1党に押し上げ、「公約は再び民意を得た」と迫った。

 それでも減税率を圧縮したのは、来年度からの実施を優先したからだ。その結果、自民、公明、民主3党も賛成した。

 市の試算によれば、減税総額はざっと80億円。夫婦と子ども2人世帯で年収500万円なら年に5800円、1千万円なら1万7500円の減税になる。

 その財源を、市長は「無駄遣いをなくし、行政改革で生み出す」と確約し、減税額を上回る経費節減を断行した。市議の報酬も半分になった。

 こんな市長の手法は、行革の観点からは成功例といえる。「減税」を市民に直接訴え、市政への関心を高めたことも前向きに評価する。

 ただ、「減税は民意ですよ」と突っぱねる議会対応は、やはり丁寧さを欠いていた。

 河村流が首長と議会の関係、大都市制度のあり方にも一石を投じたのは確かだが、その成り行きはまだ見えない。

 いま、大震災のための復興増税が決まり、さらに消費増税の議論が具体化しつつある。そんななか、名古屋市ではすったもんだの末に減税が決まった。

 これは、自治の壮大な実験である。結果はどうなるのか。

 市長が強調した減税による経済効果は、本当にあるのか。歳出削減が公的サービスの質的低下を招かないか。議会と約束したとおり、定率減税の恩恵を受けられない低所得層への対応策を充実できるのか。

 こうした減税の是非、影響と効果を検証するのは、「庶民革命」を唱える河村市長や、条例を通した市議会だけの仕事ではない。

 「減税」を選んだ市民自身が、その責任を負う覚悟で見届けていく必要がある。