「71才の365日」12月23日晴れ−2℃(金)「東日本大震災」288日

*朝トレ:6時45分〜7時45分

冬至も過ぎて、日一日毎に明けの空が早く明るさを増すようになるのか、本格的な寒さはこれからですがね!今日の踏み音は柔らかい、今日は我れが「コースイン」する前にトンビが3羽川原上空で悠然と輪を描き南へ消えた。以前は川の流れに沿って西へ飛び去るのが常だったが今は南へ林越えだ。川の流れが消えているので今は、一本南の川へ「水飲み」? 
 ご苦労様です!カラスも現れず、愛想無くそれでも1羽がもう一度だけ、道中で輪を描いた。川原での採石作業もまだ続いているが、そろそろ終えて水を流してもらいたいものだ。サギの優雅な舞姿、水辺に舞い降りる姿、浅い流れに一本足の立ち姿。つかの間に見る姿ですけどみんな美しいですよ。

 立ち止まってみていると時に、此方も一本足になっていたり(足の先が冷たくなってきて)して・・・。 今日は−2℃と此処4、5日の中で一番暖かく(?) 「ペースが上がって、珍しく顎も上がった」、そうするとテロップだ今日の映像は白いサギの色も・姿も鮮明だった! 

たっぷり1時間、強歩10本・走15本計4.0km の中級メニュー終了。帰路行き会い人なし。 ・昨日は曇り、今日は晴れているのにもう明けの月は姿が見えない、西の空に満月で見つけてから一週間足らずで三日月になって我れの視野から消える位置まで飛ぶんだ!


*「東日本大震災


今日の一題 小出先生:『原子力平和利用志す学生から原発反対への道程』

eirene’s memories 「アエラ」の記事から抜粋  転記させて頂き 「我れの覚え」とします(keniti3545)


 原発推進から反原発へと小出さんが「転向」した理由について書かれた箇所が、特に興味深い。一部引用させていただく。(eirene’s memories )

 広島・長崎に原爆が投下された4年後、小出は東京都台東区の下町で生まれた。父は繊維関係の零細企業の経営者。母はその手伝いをしていた。兄と共に近所では利発な兄弟として知られ、小出は地元の小学校から私立開成中学・高校に進む。

 中学、高校時代は地質部で活動。受験勉強に明け暮れる学友たちとは違い、入試直前の1月まで地質部部長として伊豆大島での調査研究を重ね、この年の日本学生科学賞最優秀賞をとった。

 だが、小出青年の関心は原子力にも向かっていた。その気持ちを決定的なものにしたのが原爆だった。高校3年の夏休み明け、銀座の松坂屋で催されたヒロシマ原爆展」に足を運ぶ。これは広島市が主催したもので、被災者の遺品や丸木位里・俊夫妻の「原爆の図」などが展示された。小出は多くの観覧者同様、原爆による甚大で惨たらしい殺傷に息をのむ。だが、彼が他の人々と違ったのは、この驚異的なエネルギーを、兵器としてではなく人類のために役立てたいと考えたことだ。

「ものすごい悲しみが、ものすごい期待にひっくり返ってしまったんですね。原子力の平和利用を進めるのは、大和民族の責務だとまで考えました」

 こうして、東北大学工学部原子核工学科への進学を決めた。同科の学生は、みんな小出と同じように原子力の平和利用に夢を託す者ばかりで、彼らの大半は卒業後、「原子カムラ」に進んでいった。

 小出は勉学の傍ら、山歩きを楽しむ自然逍遥会に入っていた。そこに同じ学科の2年先輩、篠原弘典(現「みやぎ脱原発風の会」代表)がいた。学生運動全盛のこの時代、学生は日常的に「闘争」について語り合い、自然逍遥会でもときおり議論が弾んだが、入学当時の小出はそんな話題にはほとんど乗ってこなかった、と篠原は言う。

 べ平連(ベトナムに平和を!市民連合)の「殺すな」というバッジを胸につけて高校の卒業式に向かい、入り口でそれを諌める体育教師とやりあうぐらいの社会的意識はもっていたが、小出はいわゆるノンポリに近かった。そんな彼がある事件と出会うことにより急速に覚醒していく。

 1969年1月、1年生だった小出は、大学の生活協同組合に展示販売されているテレビの前を通りかかった。その時、映っていたのが東大安田講堂での学生と機動隊との壮烈な攻防戦だった。

 これは何だ? 東北大でも学生運動は盛んだったが、あまりに衝撃的な映像を日にした小出は、大学樹争に強い関心を抱くようになる。

 「自分たちがやっている学問や研究が社会においてどんな役割を果たすのか。学生運動というのは、それを突き詰めて考えることでもあったんです」

合理性に欠ける「安全神話」女川で受け止めた怒りの声

 小出の場合それは原子核工学だった。旧帝国大学のすべてに設けられたこの学科は、原子力推進という国策に正当性をもたせることを使命としており、これに背く研究などあり得なかった。だが、この国策は本当に社会のためになるものなのか。疑問を抱いた小出は、国内の学者の学説のみならず、海外の研究者の見解をも積極的に拾い集めて検討を重ねる。結果、この分野には合理性に欠ける「安全神話」が蔓延っていると断じた。そして、19歳にして自身の価値観を百八十度転換する。

 「学生服を着て大学に来ていたあの生真面目な小出が、1年後には黒へル被って『入学式粉砕』ってビラを撒いてたんで、びっくりしましたね」

 篠原は今でもその光景をはっきり覚えている。小出にとって人々を不幸に導く研究者を育てる授業は阻止せねばならないものであり、授業を受けるためではなく潰すために大学へ通っていた。入学式が「粉砕」された年に東北大に入った湯浅一郎(現「ピースデポ」代表)はこう話す。「小出さんは一匹狼でした。どのセクトにも一度も入らなかった。たとえ一人でも自分の意志でやるべきことをやる。赤でも青でもなく、黒いヘルメットをかぶっていたのはその証です」

 まもなく、反公害闘争委員会に入った小出は、自身で全国原子力科学技術者連合の東北大支部を立ち上げ、東北電力原発建設の予定地としていた宮城県女川町の人々との交流もはかった。

 70年10月23日、女川の漁民が原発建設反対の総決起集会を開いたこの日、小出は篠原ら仲間十数人と仙台から列車に乗って女川へ向かった。海岸広場には二千を超す人々が集まり、海上では夥しい数の漁船が原発反対の職をはためかせていた。絶対に安全だというなら電気を使う仙台に造ればいい。なんで女川に造るんだ。町民の怒りの声を聞いた小出の覚悟はいっそう強いものになる。そして、翌月から伸問と共に「のりひび」と題したビラを作り女川の人々に配布することにした。




「プラス1」 東電でんき料金値上げに関する各社論評

◎東電は、料金値上げにも原発再稼働をひきあいに出す、論外な行動!読売は政府にそのバックアップを迫り東電の肩を持つ。読売は「原発推進」には途轍もない思い入れがあって朝日日経などとは大きく違った路線を進んでいる! (keniti3545)



朝日新聞東京電力の国有化―破綻処理の原則忘れるな
東京電力の国有化に向けて、政府が調整に入る。だが、株主や金融機関の責任をあいまいにしたままでの出資や料金値上げはありえない。政府は「東電は破綻」を明確にし、国民に納得いく手続きを踏むべきだ。

原発再稼働など筋違いだ!
原発の再稼働も筋違いだ。必要な電力をほかの電源でまかないきれない場合、当面は今ある原発を動かすことの必要性までは否定しない。だが、安全性の確保がすべてであり、東電出資の条件となるのはおかしい。


日本経済新聞電力値上げと併せ東電の将来像を示せ
東京電力が電気料金を上げる方針を発表した。短期的には東電の一層の経営努力が欠かせない。中長期では東電の経営形態の見直しや、電力市場の改革を進める必要がある。

原発再稼働など進めていない ← (keniti3545)
電力市場改革の議論を深め、実行に向けた段取りを国民に示す責任が政府にはある。


読売新聞
東電料金値上げ 政府は抜本的支援策の検討を
東京電力が来春から工場など大口契約者向けの電気料金を値上げする。家庭向けも値上げ申請するという。東電としてはやむを得ないのだろうが、経営を効率化し、値上げ幅を圧縮する努力が必要だ。原発も再稼働しないと高コスト構造が続く。

・定期検査で止めた原発を再稼働しないと、高コスト構造が続く。今後、東電以外の電力会社が値上げする可能性も否定できない。
 政府は原発再稼働のため、責任を持って安全性を確認し、地元自治体の理解を得るべきだ。




◎読売新聞は、未だに「正力松太郎」(読売新聞社主・原発の父と呼ばれた)さん、と言う亡霊の呪縛から逃れられないのか? 原発に関しては異常なまでの「執着と偏見」大手マスコミに、異常なまでの偏見が許されるのだろうか? (keniti3545)


・最近のナベツネさん問題(渡邊恒夫主筆の巨人軍清武氏問題)など比ではない大問題です。