4月3日(日) 薄曇り 「東日本大震災」から24日

*朝トレ:7時〜8時10分
・80メートル歩行3本目までは、今日もぼこぼこ・ばくばくという音に聞こえた。後はごつごつ・とくとく?
・下手なウグイスの練習、三回ほど聞いた。
・走に入って3本目頃カラスの声、今日はつがいでなく1羽だ。コースの直近に降りて何かついばむ様子我が近づくとゆっくり飛び立ち電線へ、途中姿を消したが最後まで1羽のまま、でも何かどこかへ連絡は取っていた鳴き声?

・帰り道、歩行先を横断する山鳥の雌にお早うのあいさつ、西森さん宅裏手あたりで凄く上手なウグイスの鳴き声を聞く、何小節も失敗のない鳴き声(?)数百メートル間でこんなに鳴き声の違うウグイスが居るのだ!この差はどこから?生まれてからの時間?生活環境?8時近くなると小鳥たちの合唱(合奏?)が賑やかになる。やっぱり7時前スタート、8時までに我は引き上げなければ他の「ご近所さんに」迷惑なのだ。

・今日は、愛犬と散歩中の神山さんと遠目でお早うの挨拶も交わせた
・白いトレーニングウエアーのカップルの姿は見なかった。
・今日も1日のスタートは、快調・爽快なり!(この魔法は解けませんよ!)

*被災から24日目
1、原発関係:2号機のピット壁に20㎝の割れ目発見、高濃度汚染水がここからも海に流出していた恐れ有り!
2、米軍・自衛隊の合同捜索隊が23日にも18遺体を発見収容、二日間で35遺体の収容。2万5千人体制の大捜索続行!
3、同級生に、我れのささやかなお見舞い。
唯一、東北地方(仙台)にお住まいの同級生大塚さんにお見舞いの手紙と昨年までのクラス会総集編をDVDに編集して送った事への返事があった!クラス会出席常連の皆さんはそれぞれに心配していても何か恐くて連絡できないで、我れにしても、三週間経った今になっての問いかけになってしまったが、無事の返信!ライフラインも徐々に復帰、家族も無事、家も、日常生活に支障を来すような大きな被害はなかったとのでご安心下さいとのことだった。いろいろ恐かったお話を聞かせてもらったが、外出中の時間帯にこの災害に遭遇して、揺れる道路を避け、最寄りの駐車場に車を止めてあの時間帯から翌日朝までの時間をその車の中で過ごしたそうです!それでも、本人は言ってました、実際の恐い場面を目にすることがなくて良かったと・・・! TVを見て足がすくんだとも言っていました! 恐かった話や、友人、知人達の安否を気遣う日々が続きますが恐かった思いも心に閉まったままにせず、折ある毎に少しでも言葉にして表にはき出した方が精神的な立ち直りにのためには良いんだそうです。が、解るような気がします。今からメールの開通しているクラスメイトには連絡してお見舞いの電話でも入れてもらえるようにしたいと思います。

*本日のテーマ:豪2
1、ネルソンで音信不通になってから、最後に所属したチーム・コーチなどに片言の英語?で連絡とってもいくつかの連絡先に繋がっただけだった。しばらく経ってから本人から連絡が入って、今ロスに居る。こっちで生活したいので心配するなという連絡だけは入ったが、その前後の様子は皆目分からなかった。

こちらからの連絡は無用と言うことでとりつく島もない状態、一方的な連絡が月に一二度入ってきてはいたが・・・。この辺の経緯、他から見れば親として心配してなかったの?となると思うが・・・、いくら二十歳を過ぎているとは言え、親の姿勢は問われるところだろう!(この辺の経緯も何れ吐露・書き留めておかなければならないと思ってる)。

いずれにせよビザの件・生活資金の件・その他諸々の件・未だに詳細を聞き出してないのも事実としてある。ロスとニューヨークの行き来とかも直ぐにはじめて、日本人、アメリカ人を問わずの友達もその頃急増していったとのことだ。

2、次に受けた連絡は、今は友達の引っ越し業を手伝っている、お金の心配は要らないし何も心配要らない、近々その友達の起こす日本製オートバイの、逆輸出(輸入)業を手伝うことになる。と言うものだった。
その頃から以前のように、写真など送ってくるようになり生活が成り立つ自信が付いたのかも知れないと思った。

3、友達(と言っても仲間のボス的存在年齢も5才上)の、通称大将の起こしたクラシック.ランナーズ言う会社のバイスプレジデントとして迎入れられた。(後に、我れも女房殿と現地に行って大将ご夫婦に歓待を受けた・一緒にラスベガスへも行ったりもした)

4、社員は数人で、メカニックと二名・営業は社長の大将と奥さん・バイトで雇うドライバーの管理と重要な取引には実働もこなす役割が、バイスアドバイザーという肩書きを持つ豪の仕事だ。これはとてつもないハードな仕事であることが後に解った。

4、2ヶ月に一度は大口取引に出動なのだが、ロス〜ニューヨークまで何と6,000キロメートルのドライブだ!日本縦断が2500キロ(北海道〜九州、沖縄まで含みで)と言うから押して知るべしか!
1995年、妹京子は短大卒業後東京に就職していたが、ロス、ニューヨークなどの友達に紹介がてら豪が招待したことがある。何とその時、兄貴の道中の様子を撮るカメラマンとして志願したのだ!今も10本のビデオテープが残っている。

*走行距離:6000キロメートル 途中10カ所以上で代金徴収・受注、そのうち大口4カ所では買い取りバイクを荷積みする。1995年2月6日〜23日の17日間 豪29才・京子25才、アバウトな記述しかできない我れだが、ビデオが残ってる!

5、豪は我と女房殿も招待してくれた。ロス郊外のコンドミニアムに歯科技工士の友人と共同で馬鹿でかい、広い、部屋数も6室、シャワー・浴室も大と小の二カ所ありオープンスペースではゴルフの素振りもできた。先にも書いたが、大将達と群れてベガスへ繰り込んだりもしたが、実直なお寿司屋さんのカンパチさん、実業家のジョニー、同僚のK君、ニューヨークで美容師の修行をしていたリュー君とかにも会えた。これは京子招待より遙か以前だった。メキシコ料理はボリュームに圧倒されて食べ切れなかった事を何故か今思い出した。

6、豪は向こうでも、恋はしたらしいが、年上美人のYさん、あこがれのヨーロッパに旅だった若いナオちゃんとか良く名前も、写真も見せられた。

7、京子を招待した一年後には帰国したことになるが、理由は此所では書き記さないことにする。我れの懺悔録が今はまだ書けない理由があるからだ。とにかく、30才前で?千万のお金を持って帰った。それから15年になるが我れの家で実に堅実に生活しているが嫁さんはいない。 豪というテーマも今回(今日)2としたがまだ終わってない。
*大将は、現在も会社を存続、時々モータースポーツ等の雑誌にも紹介されたりする。豪は年に1〜2度日本かロスであっている。(ちなみに大将は九州男児だ)