「keniti3545」since74 小さな窓:2014.11月22日曇り-2℃「東日本大震災」「311フクシマ」1383日 今日の一題「偉大な語り部:記録映画」
*「東日本大震災」「311フクシマ」1383日
* 放射線量測定日
データ 「グループ1」
前週 「12月15日」の 測定値
東:0.16 0.14μSv/h 西:0.14 0.12μSv/h 南:0.50 0.45μSv/h 北:0.14 0.12μSv/h
M :0.46 0.36μSv/h
全体のMaxは0.50μSv/h
5点の総平均値=0.20μSv/h
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本日「12月22日」の測定値
東:0.14 0.10μSv/h 西:0.14 0.12μSv/h 南:0.32 0.31μSv/h 北:0.12 0.12μSv/h
M :0.52 0.48μSv/h
全体のMaxは0.52μSv/h
5点の総平均値=0.19μSv/h
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データ 「グループ2」 <児童公園の測定 「5点」:各定点の平均値>
各定点 6回測定の平均 単位はμsv/h (12月/22日 月曜日)
東辺:公園内、外周東辺 楓根元 0.11
南辺:公園内、外周西辺 楓根元 0.75(maxは0.85μSv/h)
西辺:公園内、外周西辺 樹木根元 0.33
北辺:公園内、外周北辺 樹木根元 0.11
E :児童公園(グランド中央部) 0.10
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データ 「グループ 2」
前週12月15日の測定値
東:0.18 0.14μSv/h 西:0.35 0.34μSv/h 南:0.77 0.77μsv/h 北:0.18 0.14μsv/h
中央:0.16 0.14μsv/h
全体のMaxは0.77μSv/h
5点の総平均値=0.27μSv/h
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本日12月22日の測定値
東:0.14 0.12μSv/h 西:0.37 0.37μSv/h 南:0.85 0.79μsv/h 北:0.12 0.12μsv/h
中央:0.12 0.12μsv/h
全体のMaxは0.85μSv/h
5点の総平均値=0.28μSv/h
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*今日の一題「偉大な語り部:記録映画」
「双葉から遠く離れて 第二部」(shuueiのメモさんからのご紹介)
(http://d.hatena.ne.jp/shuuei/20141220/1419032357)
<監督:舩橋淳(ふなはしあつし)>
『フタバから遠く離れて 第二部』
原発事故は遠い昔の出来事だったかのように、風化が進んでいる。
その中で原発避難民を映した映像は、メディアのここかしこに散見されるが、それはみな「被害者」「かわいそうな人たち」というレッテルを張った描写である。
それを見て「ああ、かわいそうだ」と思うもの
「そんな話題、もう見たくもない」と思うもの
こうした認知の在り方そのものが僕はおかしいと思う。
その認知全体をひっくり返し、見直したいと思う。
なぜか。
福島第一原発の電力はほぼ100%関東圏に送られて来た。
僕たち東京の人間、都市部の人間が使って来た電気である。
そして、60年代〜日本の高度成長の中、「原子力 未来の明るいエネルギー」(双葉町に架かっている標語アーチ)として原子力のポジティブなイメージを支え、原子力にGOサインを出してきたのは、僕たち日本人全員、日本社会そのものだからである。
元は、原爆と同じ核の毒であり、悪魔に魂を売ったゲーテのファウストのように、その大きなしっぺ返しを受けながら、それが自分達に起因している
ことをどうしても認めたくない。
そんなしっぺ返しの強烈な<痛み>に対し、僕たちは距離を置いて直視を避けている。他人のせいにする方が楽だから、国と東電を責める。
遠く離れることで、それを直接には感じなくなることで、
うやむやに過ぎ去ってゆくものがこの世の中に、たくさんあるということ。
原発避難民は「かわいそう」なだけじゃない。
僕たちもその加害の一端を担っているのだ。
正義の欠如に僕たちも加担しているという不都合な真実。
今の国の態度は、金と権力と歪んだ理屈でムリヤリで黙らせようという前近代的なやり方。(それは、いまの首相にせよ、県知事にせよ、また世界のあらゆる国で見られる市民の弾圧である)
住民説明会では、環境省が中間貯蔵施設の補償を、東電が賠償の窓口とする、という縦割りが徹底され、すべて事務的な補償<金目>の議論に落とし込まれている。
そもそも誰がこのような犠牲を押し付けるのだろう?という問いは、議論されない。
そうすることで、国は責任追及は免れる、
のではなく、「僕たち」が責任を免れている。
巨大な責任回避装置を私たち自体がサポートしている。
他人の痛みを思いやるだけじゃ足りない
自分の加害について思いを馳せる
それがぬくぬくと電気を使いつづける、悪魔に魂を売り続ける、私たちが感じるべき、ささやかな倫理であると思う。
【中間貯蔵施設について】
中間貯蔵施設には、根本的な問題がある。
それは放射性物資汚染を引き起こした加害者が法的に特定されていないことであり、この無責任な放置が諸悪の弊害を生み出している。その一つは、今まで関東圏の電力のために利用されてきた双葉町・大熊町が、さらに「核のゴミ」をなぜ被らなければいけないのか、という倫理的な矛盾である。
町は交付金・雇用を得ていたのだから、「利用された」のではない。関東圏とはイーブンな関係であり、いま原発事故のリスクを背負うのは受け入れた側の自業自得ではないか、という声もある。しかし、そういう「リスク」(=町におそらく30年以上は帰還できず、土地・家・財産を失い、国・東電に賠償をケチられ、それまでの人生があらゆる面でグレードダウンしなければいけないという多大な損害。まさしく福井地裁の大飯原発再稼働差し止め判決で出た「人格権」の侵害である)を、半世紀前、原発受け入れ・操業開始の時に誰がちゃんと説明したというのだろう?たかだか40年間の町の繁栄のために、それまで1000年以上つづいていた町の歴史と、311以後ずっと続いていたであろう町の将来・家系の継承が霧散してしまう巨大なリスクを、地方に背負わせるのは不公平ではないだろうか。
沖縄と福島に共通する犠牲のシステムがここにある。
それは自業自得ではなく、宗主国と植民地の関係に近い、利用するものと利用されるものの関係であったと思う。
だから、利用してきたものの責任と罪を明らかにせずに、ゴミだけを押し付けるのは、新たに犠牲のシステムを生むことを容認することになるのだ。
「金目」の条件交渉となる前に、話さなければいけないのは、上のような倫理の問題である。
僕たちは、双葉町を含む福島避難区域の人々の「人格権の回復」を何よりもまず求めるべきと思う。
そんな正義の追求があってこそ、現実問題として、「核のゴミ」とどうするのか、を話し合う対等な立場になる。
対等でフェアな立場で話し合うことを互いに尊重するという、理性と倫理が、住民説明会の現場で求められているものなのだと思う。
そんなのお花畑の理想論、という人もいるだろう。
しかし、そんなフェアな立場を獲得できなかったため、水俣病患者は50年以上の年月、待ちぼうけにされ、疲弊させられ続けた。
国民と地方の市町村が一緒になって、この前近代的な、アンフェアな対話環境を変えてゆく努力をしないと、単なる金目の話に落とし込まれてしまうのだ。
だから、正義の欠如については、ちゃんと主張をしてゆくべきだし、
二度と「犠牲のシステム」を生んではならないと、関東圏や原子力の電力を使って来た僕らもそれを全力でサポートすべきなのだと思う。
なぜなら、ぼくらはみな福島原発事故の当事者なのだから。
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監督:舩橋淳(ふなはしあつし)
1974年大阪生まれ。東京大学教養学部表象文化論分科卒業後、ニューヨークで映画を学ぶ。デビュー作『echoes』(2001年)が、「アノネー国際映画祭」(仏)で審査員特別賞と観客賞を受賞。第二作『Big River』(2006年、主演:オダギリジョー)は、「ベルリン国際映画祭」「釜山国際映画祭」でプレミア上映。東日本大震災で町全体が避難を余儀なくされた、福島県双葉町とその住民を長期に渡って取材したドキュメンタリー『フタバから遠く離れて』(2012年)は国内外の映画祭で上映。2012年キネマ旬報ベストテン第7位。著書「フタバから遠く離れて 避難所からみた原発と日本社会」も出版される。劇映画『桜並木の満開の下に』では被災地を舞台に物語を展開し、ジャンルを越えて、震災以降の社会をいかに生きるかという問題にアプローチしている。最新作は「小津安二郎・没後50年 隠された視線」。
【劇場用映画 Feature Films】
2012 『桜並木の満開の下に』(2013年全国公開)
2012 『フタバから遠く離れて(Nuclear Nation)』(2012年全国公開)
2009 『谷中暮色 (Deep in the Valley)』(2010年全国公開)
2006 『BIG RIVER』(2006年全国公開)
2001 『echoes』(2001年全国公開)
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◎.残念ながらわれ(keniti3545)は、この映画を通しては見ていません。それでも、監督の真実を訴えるコメントで十分今後への問題提起を読みとる事も出来ますし、自身の意識付け・確認に大いに役立たせて頂けます。
筆者は <避難区域の人々の「人格権の回復」> を先ず求めるべきだ。と云ってますが、われも拙ブログの中で 手前ミソながら・そして表現も違いますが何回か記述してきています。 食料を含む物資の供給と仮住まいの措置を持って支援の充足などと考えるのは如何にも安直な「お上のお慈悲てき偽善だ」と云うしかない。
最小コミニュティーの破壊まで画策、最弱者の判断力も最小の欲求まで抑圧して線量高い地域への帰還強制、支援補助金支給さえ「お上の意思に背けば支給せずの構え」すら見せている。せめて同地区ない隣組的繋がりの人達との交流は促進させる方向にお上の力(行政からの力添え)が一番欲しいところではありませんか。自分の居所がなく「立ち位置も定められない」人達にはとうてい「人格権の回復」は不可とさえ思わせてしまっている現状です。
福島の人達の「人格権の回復」は筆者の云っているように我々同胞(国民全ての問題であり)その「責任の所在もここにあり」。ですね。福島の被災者の体力と気力をを回復してもらう具体策も必要ですね。一人暮らしの高齢者が自死した、行政もお骨折りはいただいているのでしょう、しかし「相談員?・担当者?」が云うには、先週来たときには留守であえなかった?!
掲題の文章から、結びを借りれば
<ーーだから、正義の欠如については、ちゃんと主張をしてゆくべきだし、二度と「犠牲のシステム」を生んではならないと、関東圏や原子力の電力を使って来た僕らもそれを全力でサポートすべきなのだと思う。なぜなら、ぼくらはみな福島原発事故の当事者なのだから。>
高齢者も若者も区別する者は何もないでしょう、選挙だってこの問題の一環なんだよね。 <何も欲しがらないから、何もしない?> 「望んでか望まずしてか」、どっちにしてもせっかく生を受けたんだから何かと拘わって体と心を動かしてみれば何かを欲しくなるんじゃないでしょうかね」? 世の中ってそんなどうでも良い事の繋がりで動いて居るんだから自分も動いてみようと思ってみては如何でしょうかね。 (keniti3545)
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