「keniti3545」since73:9月1 日晴れ16℃「東日本大震災」「311フクシマ」906日 今日の一題「防災の日に心する」

*朝トレ: 朝帰りのため朝トレは叶わず。 三日ぶりに我が家へ、3年毎のクラス会(1泊2日)終えて、更に遠隔地の友二人ともう一泊(大阪のs氏が二日目の行事に参加するとその日の内に帰宅するのは難しい)して、8時30分に宿を引き払い先ず一人を東武日光駅に送った

「大阪からマイカーで参加」という豪傑は、我が家で一服してもらい(帰り道順に我が家が位置する)、ねぎらいも早々に帰途に付いてもらった。10時20分に送り出したが2時間ほど経ってから降雨、如何に「豪傑」とはいえ少々心配ではあった

 夕、19時に無事帰宅の連絡を貰い、ようやっと責任を果たした感じでほっとした。我が家でも家族には少なからずの心配は口にされたのでs氏とて今後の行動に関す諫めの言葉は頂いたはず、ま、甘んじて受け粛々と日々の行動に戻ることにしましょう。 後日この日記にも、クラス会のスナップ写真でも載せられればと思っています。 その前にご当人達への写真もアウトプットしなければならないな〜。半数以上はメール遣らず ”電送”は不可だものな〜。ま、ぼちぼち遣るので「待っていて下さ〜い」!  


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*「東日本大震災」「311フクシマ」906日



*今日の一題 防災の日に心する」


 昭和35年(1960年)9月1日発行の官報資料に登載された防災の日の創設に関する記述

 「政府、地方公共団体など関係諸機関はもとより、広く国民の一人一人が台風、高潮、津波地震などの災害について、認識を深め、これに対処する心がまえを準備しようというのが、『防災の日』創設のねらいである

 もちろん、災害に対しては、常日ごろから注意を怠らず、万全の準備を整えていなければならないのであるが、災害の発生を未然に防止し、あるいは被害を最小限に止めるには、どうすればよいかということを、みんなが各人の持場で、家庭で、職場で考え、そのための活動をする日を作ろうということで、毎年9月1日を『防災の日』とすることになったのである」と、制定の主旨が記されています




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東京新聞 2013年9月1日


「森」が命救ってくれた 猛火、九死に一生 関東大震災きょう90年

 一九二三(大正十二)年九月一日、関東大震災で街が炎にのみ込まれる中、木々にあふれる公園で多くの命が救われた。「森があったからこそ」。猛火から逃れた女性には緑の記憶が刻まれている。想定される首都直下地震でも火災は大きな脅威だ。あの日から九十年。樹木の力は都市防災に生かされているか。 (杉戸祐子、横井武昭)

 森の木は焼けません。そのまま残っておりました」。十九歳の時、現在の横浜市中区山下町で被災した百九歳の日高帝(ひだかてい)さん=東京都目黒区=は炎が包む街から緑豊かな公園へ逃げ込み、命をつないだ

 「勤務先の商館にいるとゴーっと音がした。着の身着のまま、げた履きで外に飛び出したが、揺れがひどく転んでは起き、手も足も血まみれになった」
 土煙が立ち込め「火事だ」と叫ぶ声が聞こえた。「火柱が立ち、真っ赤な炎が襲いかかってきた」。がれきを越え、横浜公園に駆け込んだ。震災の四十七年前に造られ、現在もJR関内駅東側にある。大木が茂っていた横浜公園を日高さんは「森」と呼ぶ

 「森は人、人、人で一寸の余地もない。水道管が破裂し、少しの飲み水もなかった」。四方は火の海。火の粉を払い一夜を過ごしたが、公園は燃えなかった。「大木がたくさんありましたから」。葉の付いた枝を折り、亡くなった人にかぶせて回った。「せめてギンバエから守ろうとしたことを覚えております」
 横浜公園にこんな碑文が残る。「多数の市民は緑陰池辺に避難して危うくも九死に一生を得たり
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 関東大震災の犠牲者は十万五千人に上り、中でも東京の隅田川両岸に広がった大規模火災で多くの人が焼死した当時の火の流れを詳細に分析した「東京市火災動態地図」(震災予防調査会)によると、現在の江東区にある清澄庭園千代田区日比谷公園、港区の芝公園など、公園や寺社が延焼を食い止めている。そこには必ずイチョウなど防火性の高い樹木があり、避難者が生き延びた

 八六年、墨田区の北端に東白鬚(しらひげ)公園が開園した。十万平方メートルの細長い敷地にスダジイやクロガネモチなど防火樹を選んで植えている。「防災拠点として避難者を守るため」と指定管理者周囲に木造密集地が広がる危険性を意識した

 同園一帯は大規模火災から逃れるための「広域避難場所」の一つ。東京二十三区に百九十七カ所あり、面積や避難距離を基準に都が指定するだが緑化の割合に関する視点はない。「コンクリートの建物は熱を防ぐが、樹木は季節によって燃えやすいものもあり過大に期待できない」。都防災都市づくり課は話す。
 これに対し、防災に詳しい室崎益輝(よしてる)・神戸大名誉教授は「街をコンクリートで固めるわけにいかない。燃えにくく水分の多い樹木を選び、緑を増やすことが都市防災には重要」と断言公園や街路樹、生け垣が延焼速度を落とし、燃えにくい街づくりに有効と訴える

 米国のシカゴは一八七一年の大火を機に公園や並木道などのグリーンベルトを網の目のように張り巡らせ防災都市の基盤とした関東大震災後の「帝都復興事業」でも、都心を南北に走る「昭和通り」は当初、中央に緑地帯を備えていたしかし首都高速道路の整備で緑は姿を消した

 室崎名誉教授は言う。「緑と自然の力を借りて大火を防ぐ。関東大震災の教訓を原点にしなければならない」

<樹木の防火機能> まず「水分による延焼防止」。生葉は重量の数十%が水分で枝も水を含み、水蒸気として放出され温度上昇を妨げる。葉が厚いほど水分が多く防火力は大きい次に「熱や煙の遮断と拡散」。適度に密生した樹木は周囲の熱風を遮り、遠赤外線の「ふく射熱」の進入を防いで熱気流や煙を上にそらす。最後に「火の粉の捕捉」。風で火の粉が飛ぶと新たな火災を生むが枝葉は飛散を防ぎ消火する。効果は種類で異なるが一般に常緑樹は防火力が高く、中でも広葉樹は有効。



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東京新聞 2013年8月31日

デマと虐殺 語り続ける 関東大震災 あす90年 「生き証人」97歳 長島花樹さん

「デマは怖い」と話す長島花樹さん=豊島区で


 一九二三(大正十二)九月一日、首都圏に甚大な被害をもたらした関東大震災から九十年を迎える揺れや大火で壊滅状態となった首都圏では「外国人が暴動を起こした」といったデマから虐殺が起きた。七歳の時に被災した豊島区の長島花樹(はなき)さん(97)は「うめき声が今も耳の奥に残っている」と話す。 (杉戸祐子)

 大震災から数日後、長島さんが栃木県内の親類を頼って避難するため、鉄橋の落ちた荒川を豊島区の自宅近くから、埼玉県側に渡し船で渡ろうとした時のこと。「ギャア」「ウーン」。川堤で日本人が朝鮮人を虐待する声が聞こえてきた

 目の当たりにはしなかったが、「ひどいことをしているのは子どもにもわかった」。背景にデマがあることは知っていた。「警官が『朝鮮人が井戸に毒を入れたから飲まないように』と言って回っていた。警察もすっかり混乱していた」
 他にも、通っていた小学校の教諭が話し方の特徴から日本人に外国人と間違えられ、「捕まって袋だたきにされそうになった」。通りがかった同僚が事情を話して解放されたが「通りがからなかったら殺されていただろう」。
 おしゃれ心から髪を「おかっぱ」にしていた知人の男性が、外国人と間違えられないように「七三分け」に変えたことも、目に焼きついているという

 長島さんは今もこれらの記憶を語り続ける

 「あの揺れを思えば普通の地震は怖くない。ただデマは本当に怖い」


都内では催し 関東大震災での虐殺について学び合う「関東大震災90周年記念集会」が31日、千代田区の明治大駿河台キャンパスで開かれる。研究者や弁護士らが基調報告や講演を行う。午前10〜午後5時半、資料代1000円(学生500円、高校生以下無料)。問い合わせは事務局田中さん=電080(9414)0901=へ。

 港区の在日韓人歴史資料館では31日から企画展「関東大震災から90年、清算されない過去−写真・絵・本からみる朝鮮人虐殺−」が始まる。12月28日まで(日、月曜休館)、午前10〜午後6時。入場無料。9月14日午後2〜5時には記念セミナーを開く。事前申込制。参加費1000円(学生500円、高校生以下無料)。問い合わせは資料館=電03(3457)1088=へ。

 <大震災後のデマ> 地震や火災の混乱の中で「朝鮮人が暴動を起こした」といったデマが発生。戒厳令が敷かれ、関東各地で住民による自警団や軍隊が朝鮮人や中国人、社会主義者らを殺害した。犠牲者は数千人に上るとされるが、政府の調査は行われていない




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 「プラス1」

下野新聞雷鳴抄
旅立たない若者  8月31日 05:00

 かつてのアジアには旅する日本の若者が数多くいた。背に担ぐ大きな荷物ゆえ「バックパッカー」と呼ばれた

▼滞在費をぎりぎりまで切り詰め、タイのバンコクであれば、1泊数百円程度のホテルが並ぶカオサン地区に集まった。そして、旅費が尽きるまでインドやヨーロッパへとあてどない旅を続けた


▼しかし、「最近は外国にも海外旅行にも興味がない若者が増えている」と旅行作家の下川裕治氏。「大学に呼ばれて話をすると『旅をして何かが得られるんですか』と学生から真顔で聞かれることもある」と苦笑する


入管統計も裏付けている。20代の出国者は1996年に戦後最高の約460万人に達したが、昨年は約300万人。総数自体は現在も増加傾向にあり、60代の出国者が伸び続けているのとは対照的だ

非正規労働の増加など若者を取り巻く過酷な環境ゆえとも説明されている。学生時代は就職活動に忙殺され、就職後は低賃金で休暇もほとんどとれず「海外旅行どころではない」との声も聞く

とはいえ、異文化を旅する経験は若いうちほど貴重だ。日本を相対化して考えるきっかけになるし、自分を見詰める時間も与えてくれる。昔から「かわいい子には旅をさせよ」のことわざもある世界を知らない若者が増えることは残念だ



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