「keniti3545」since72:3月7日曇り+3℃「東日本大震災」「311フクシマ」728日 今日の一題「何処へ行っても進行形の傷跡だらけ”放射能”帰れない人は今?」

*朝トレ:(朝一倅ピロリ菌検査、呼気採取のみ1時間ー運転手)後、:恒例大谷川公園の「大散歩&昼食会」公園内「固く小さな梅のつぼみ群生の中に赤いつぼみを「2個」見つけた。細尾より春が近付いて居るんだ。昼食会?はい3名様(倅、と女房殿、と我れ)です

 最近の我れはステーキよりハンバーグの方が性に合ってきました女房殿と倅は結構厚めのステーキ平らげたな〜今日は、グラスワインをと思ってたんですが、 「公園の一角で」剥いだ表土の埋設作業を遣っておりきれいに見えるパークゴルフ場」・ 「昂佑友麻、孫達が日光へ来ると一度は一緒に「遊ぶ芝野っ原」 いずれも手を入れ「かきむしられた傷跡」を見てしまった。また、 「春霞」? (これもお隣さん中国からの有り難くないお客さん、黄砂+pm2.5だろうが今日の空のような気分になって来た。ので、 「ワイン」はヤーメタ。 ( 「1.5時間」体は喜んだが心が晴れない大散歩でした



*「東日本大震災」「311フクシマ」725日


*今日の一題 「何処へ行っても進行形の傷跡だらけ」 ”!放射能!”  「帰れない人達の今は」 



昨年8月双葉町はこう訴えた

全町避難だから異議が言える異常な線量基準原発, 放射能, 政治2012年08月27日)


 福島原発事故で全町避難している双葉町が、国が設けた避難区域の線量基準に異議を唱え、町民の帰還に向けた区域再編協議を拒んでいます年間線量が5ミリシーベルトを超えていても20ミリシーベルトまでは住民を帰す国方針では安全が確保できないと考えているからです

 5ミリシーベルトチェルノブイリ事故での移住基準であり放射線障害防止法で定める放射線管理区域の設定基準にも相当し、健康に問題があると考えて当然です。ところが、福島市郡山市など広い範囲が現在も5ミリシーベルト以上なのです。福島県内の自治体が住民を繋ぎ止めるためにしない異議申し立てが全町避難の双葉町だから出来る構図になっています今なお国に依存しているマスメディアには不思議に思う気配すらありません



 福島民報の《国の線量基準に不満 双葉町が再編協議拒否の理由示す》はこう伝えています。《チェルノブイリ原発事故で立ち入り禁止とされた区域の放射線量と国の「居住制限区域」の線量を比較し、日本側が4倍も高いと指摘。国の基準で区域を再編した場合、町民の安全は守れないなどとしている》《国は50ミリシーベルト超を「帰還困難区域」とする一方、20ミリシーベルト超50ミリシーベルト以下は住民の帰宅や通過交通を認める「居住制限区域」、20ミリシーベルト以下は除染やインフラの整備を進め住民の早期帰還を目指す「避難指示解除準備区域」に再編する方針町内については、この線量基準などに基づき3区域に再編する案を示しているが町側は住民の安全確保などの観点から町内全てを帰還困難区域にするよう求めている




 上に掲げたのは4月の「20mSvで居住可の無茶を何年も続けて良いのか」で取り上げた5年後の空間線量予測地図です帰還困難が年間20mSv以上と限れば原発がある双葉町でも赤色とオレンジ色、黄色の部分は半分以下です。しかし、放射線管理区域の基準で見れば町全体が該当しますそこで放射線管理区域では禁じられている飲食はもちろん、寝泊まりして生活することになったらたまらない――とても正常な判断だと考えます住民の離散を防ごうと、こんなに高い線量なのに事故直後から避難を妨げている実態がアブノーマルです。「ふくしま集団疎開裁判」の《判決前夜アクション:矢ヶ崎克馬氏の警鐘いま、申立人の子どもたちは全員、チェルノブイリ避難基準の移住義務地域で教育を受けている」》が指摘する「年間1mSv以上で移住権利5mSv以上が強制移住が奇異に受け取られている福島の現状がおかしいのです


(2012年8月26日更新)


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8月に異議を訴えた双葉町住民の今は?!


◎.もう騙すことも騙されることもない! 説得も言い訳も要らない! 「年配者と若者の心の乖離」! 国はどんな償いをする気何だろう? 私たちは忘れない絶対見届ける(例えあの世へ行ってからでも!)! (keniti3545)



原発避難者、3割が帰還断念か若い世代ほど、強い傾向【震災2年】


 東京電力福島第1原発事故で避難を余儀なくされている3割以上の人たちが、ふるさとへの帰還を諦めつつあることが、復興庁などの調査で分かった若い世代ほどこうした傾向が強く、避難先の福島県内の自治体では自宅を新築するなど、生活再建に向けた動きも顕著になってきている。

 復興庁などが昨年から今年にかけ、原発周辺の放射線量が高い双葉、大熊、富岡、浪江の4町で実施した住民意向調査によると、「町に戻らない」と答えた住民の割合は、双葉町30.4%、大熊町45.6%、富岡町40.0%、浪江町27.6%放射線原発の安全性に対する不安、自宅が住める状況ではないことなどが主な理由として挙げられた。

 年代別でみると、30代は双葉町が40.4%だったのに対し、大熊町54.7%(10〜30代)、富岡町56.4%、浪江町は41.3%。60代も双葉町が34.2%、大熊町38.9%(60代以上)、富岡町は38.0%、浪江町は23.6%だった

 大熊、富岡両町の数値が高めなのは、双葉町浪江町が「(放射線量低下や復興などの)条件が整えば戻りたい」などの選択肢もあるのに対し、「現時点で」としているためとみられ、4町とも全体的に若い人ほど「戻らない」と答えた人が多い。富岡町の担当者は「子供の健康を心配し、子育て世代がそうした決断をしている」と説明する。


 4町には、役場や学校などを別の自治体や町内の低線量地区に移転させる「仮の町」構想があるが仮の町に「居住しない」とする人も増えている。住民意向調査では、復興計画が策定されていない双葉町の42.8%が最も高く大熊町は24.2%、富岡町24.4%、浪江町30.3%。被災自治体からは「戻らない人への生活支援が必要」(双葉町)、「単独の町としては成り立たなくなるのでは」(富岡町)との声も上がっている。

 一方、原発周辺から多くの住民が避難している福島県いわき市郡山市では、震災被災者や原発事故避難者の新築物件着工数が徐々に増加しているといういわき市によると、2012年12月時点で、同市以外の県沿岸部住民からの建築確認申請件数が前年同期の約3倍に当たる117件に増加。郡山市でも1月末時点で、震災に伴う建て直しに加え、原発避難者からの申請などを背景に年度ベースの件数が前年同期より255件増えた。
 いわき市の「いわきニュータウン」では震災直後に290戸あった住宅地が3月までに完売する見込みだ。分譲を行う都市再生機構(UR)の担当者は「原発避難者らの申し込みが増えた。市内では立地など条件が良いところからどんどん売れている」と話している。(2013/03/06-17:13)


◎.もう、騙し・説得・誰かのとりまとめ・などでは収まりの付かないことでしょう。あくまでも個人を尊重して対処するべき、勿論強制的に戻そうとか数合わせをしようなどと画策する事は止めないと行けませんね子供の「被爆軽減」と大人の対応は自ずと違いがあってしかるべし、です。 (keniti3545)


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「プラス1」 


 「こんな辛い人だって弱者に寄り添っているんだ」!・・・・・。


 国民は忘れるはずがない! デモに行けない人だって政府の一挙手一投足を見逃さない! (keniti3545)


朝日新聞デジタル3月6日

(生きる 東日本大震災2年:2)心の時計、また動く日が

  「給食の時間に児童と話す斎藤誠さんが居る=福島県会津若松市

 《教室に笑い声は戻ってきました。だけど、大熊の子は、まだ心に傷を抱えている。ふっと寂しくなるような。震災の話は一切できない
 まだまだ難しい。本当に難しい。》


 東京電力福島第一原発から100キロ離れた福島県会津若松市原発事故で全住民が避難している大熊町の小学生が、ここで学んでいる使われていなかった校舎を間借りした大熊町立熊町小学校。斎藤誠さん(42)は3年生の担任だ

 震災のときは、南相馬市の小高(おだか)小学校にいた

 《あの日、教室は激しく揺れて、子どもたちは泣きじゃくったあのときも3年生の担任で。子どもたちを保護者に引き渡し、市内の自宅に向かったのは夕方になってからです

 でも、辺りは一面の海。どこが家だったかも分からない。家には、義理の祖母と伯母、そして、5歳だった次男の翔太がいました。》


 震災翌日、第一原発が爆発。避難指示が出た。翔太君たちを捜しに行くことができないまま、避難生活が始まった南相馬市飯舘村川崎市前橋市……。県内外を転々とし、4月3日、会津若松市に来た。警察から電話が入ったのは、その5日後だった
 《 「しょうた」の名前が入ったトレーナーの男の子が見つかった、と。原発事故で1カ月近く中断していた捜索が再開された2日目でした。 》


 妻の真紀さん(36)と長男の拓人君(12)を車に乗せて南相馬市のスポーツセンターへ。ロビーの床には、いくつもの棺(ひつぎ)が並べられていた
 《前を歩く妻が「翔太!」と叫んで、泣き崩れました。ああ、だめだったんだ
 小さな体が、大人が入る棺に横たわっていました。いつも布団で寝ていたような顔で。何度呼びかけても、目を開けることはありませんでした


 あの日、助けに行ってあげられなかった。ずっと、捜しに行ってもやれなかった悔しくて。
 私は親として、失格だったのかも知れません
。》


 新学期が始まり、斎藤さんは会津に移った熊町小学校で、教壇に戻った。でも、これまでに教室で翔太君のことを打ち明けたことはない
 いま受け持っている3年生の隣の教室は、1年生。歌を歌ったり、返事をしたりする声が聞こえてくる
 《ふっと、翔太のことを思い出してしまう。にこにこした、あの笑顔が浮かんでくるんです。生きていれば1年生でした。あんなふうに、楽しい学校生活を送っていたはずなのに
 あらがえない、どうしようもない苦しみがあります。以前のような笑顔には、私はもう一生戻れないのだろうと思っていました。》

 そんな斎藤さんの胸に小さな希望の光をともしたのは、新しい命だ

 《男の子です。翔太の生まれ変わりだと思う。信じられない。おなかの中で動くのが分かる。妻も少し、笑顔を取り戻したかな。》

 予定日は3月10日。

 《名前は翔太から1字もらって、「優太」にしようと思っています。避難を続けている私たちは、多くの人に助けてもらった。どんな人にも、いつでも優しくあってほしい、と。

 私の心の中の時計は、あの日のまま、止まっています。1秒たりとも進んでいない。でも、この子が無事に生まれてきてくれたならば、再び動き始めるような気がします
 今度はその1秒1秒を、大切に暮らしていきたい。》


 4日、斎藤さんは教室で「もうすぐ先生に赤ちゃんが生まれるんだよ」と打ち明けた。子どもたちは「えーっ」と驚いて、拍手をしてくれた

 《教室で、一日も早く、本当の笑顔で子どもたちの前に立ちたい。そのために、努力もしないといけない。そう思っています。》
 (石毛良明)


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