「keniti3545」since72:1月9日(水)曇り−1℃「東日本大震災」「311フクシマ」671日 今日の一題「第五福竜丸事故を中心に反芻する」

*朝トレ:8時30分〜9時30分ホンマモンの「朝トレ」でした。

今日は気温も ”しばれる” ほどでもないし0℃を挟んで±2℃ぐらいなら「身も心も芯から目覚め」て「何を考えてもどんな動きを体に命じても」始動がスムーズ出来ます未だ我れの「パーツ」は順応性を余り失っていない様にも思える。もっとも、 マイコン」と「モーター」は「型落ち、劣化共に」我れの車以下だろうが・・・

とにかく「衰えは日常生活に差し障りのあるほどではありません」とは枝野さんのお言葉でしたかね? 余りと言うか大いに、当てにはなりませんね!。ま、 「内蔵にも冷気を」取りこみ、取り敢えずは「一日の始まり」の「儀式」は済みました。

今日は明け方にほんの「少々降雪」があったのですが「門を出て路面に立つと」この雪が「つぶつぶの砂糖をまき散らした」様でした。車のタイヤ跡が無いアスファルト上には、溶け跡とつぶつぶ雪が」「砂糖をまき散らした様な」状態なのですコースへ出て又面白い、曇り空切れ目に差し掛かる太陽が「射る淡い光が我れの足元から彼方まで」照らす。すると、つぶつぶ雪が「きらきら輝くダイヤモンドダスト」? もっと「寒〜い朝遠く山の木々に」・・・のイメージに合わないんですよね!! 

そっと手指を近づけるとじわっと「地図を描く様に溶けちゃうんですよ」! 面白くて何回も試してみた。 「ばっかだね〜」とも言ってみた今日はきれいな砂糖雪(?)の変幻に見とれて「B下」にも達すことなしのCクラスメニューだから息も切れず、テロップも廻ってないのにもう一度呟いた「ばっかだね〜」!そう、今日は、送電線上にカラスも居たんだ「つがい」だった。きっと言ってるよ「ばっかだね〜」、と。


*「東日本大震災」671日


*今日の一題 第五福竜丸」挟んで「原爆・原発」 後先を反芻する
 一昨日、取り上げた「第五福竜丸事件」ブログのお仲間も多数思いを寄せてくれた。中に、2007年に地元のユネスコ協会主催の研修旅行で、東京の第五福竜丸展示館を見学しました。と言う「miyotya」さんの記事を読ませていただきましたが、内容の濃い記事ですので是非皆さんにも読んでいただきたく此処に転載させていただきます。

↓ 全文です。
http://www11.plala.or.jp/miyotya/syuki46.htm



更に、昨日は津波被害に大変な被害を負った被災地の方々の復興に自身の手と発意を添えようとしている逞しさをお知らせしようと試みました。が、その記事の中にもブログ仲間の頷きも頂きました津波被害(自然災害はことごとく)に関しては、10メートルの防波堤を築くのも有効且つ大切な事ではあるが、何をさておいても先ずは逃げること・避難すること

だから、それに付随する項目を充実させることが肝心と仰っていました逃げる「ルート」の確保、「日頃の訓練」備え自分達に出来ること「遣らなければならない事は」いくらでもある伝えたいエピソードもたくさんあります津波警報が出た時点で、「家で母を待つ少年」が、「家族の行動を信じて」自分も「待つ」を、斬り捨て自分が「逃げる」事を決断した

家路に就いていたお母さんも途中、「息子を信じて避難場所へと進路」を変えた。結果、 「息子も母親」も「危機一髪で避難所へ」たどり着き、「うれし涙の再会」となった「どちらかが躊躇してもこの瞬間は迎えられなかった」ことを「親子は後刻しみじみと語った」ということです。 (keniti3545)



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 此処で、比較する事は非常に罪悪感を持ってしまうのですがやはり声を上げなければならないのだと思います原発事故の場合何処へどのように逃げろと言うんですか?お上でさえ誤った方向指示や、被害予想の騙しを口にし大丈夫です。等と無責任なことを口走っているだけでした。自分で判断など到底出来ないのです。原発は稼働している限り、事故の際自分のみを守る術がないのです。  「自然災害は先ず逃げることが一番」 だったら、原発事故に関しては事故が起きれば何処にいても、何処へも逃げられないのです原発を動かさないことが唯一の」対処方法なんです、その道が遠ければ遠いほど今の我々はこの現実を声を上げて伝え続けなければならないのです。各「個」人にも、反芻が求められます。(keniti3545)



「間違って指示した政府は殺人未遂」として訴えられてもおかしくないのです。我れは「今一時の高ぶりで口走るのではありません」。 政権が変わったら、間髪を入れずに「原発再稼働、新規製造も許可」しましょう。とは何事ですか!!  原発事故は前政権時のこと」と言っていられる状況ですか!?

自民党時代に作った」原発活断層の上に立つ原発許可したのは自民党、如何に「自政権でない時の事故」といえど「国民は脱原発70%以上のコンセンサスを持って訴えた」経緯は承知のはず選挙中には「政権奪還した暁には原発推進に努めますなんて更々言ってない」でしょう、もっと「狡いと思うのは国民はあの選挙の第一番目の争点が「脱原発」、否「原発推進」かという事だと思っていたのにも拘わらず「色々な手を使って」この大事な争点をぼかしてしまいました。「マスコミを使うは一番の卑怯者」です! (keniti3545)


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◎.原発は稼働させておけば必ず事故が起きます。 他の国が脱原発に向かう中どうして原発を止められないのですか世界一の地震大国ですよ!!  他国は日本はおかしいと思い始めています。 (keniti3545)



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第五福竜丸事件を中心に、反原爆・反核の歴史に触れた記事がありました。 (少し長くなりますが時間のある時に反芻材料に 是非)


原子力発電を考える(第17回) 電力事業の歴史を追う――第五福竜丸事件と反核運動の成立

(復興日本ウエブより:松浦 晋也=ノンフィクション作家)

昭和29年(1954年)3月1日から5月14日にかけて、米国は信託統治領の南太平洋・マーシャル群島のビキニ環礁およびエニウェトク環礁において6発の水素爆弾を爆発させる「キャッスル作戦」を実施した
 米国は焦っていた。1952年11月にエニウェトク環礁で世界初の水素爆弾の爆発実験に成功したものの、翌年8月12日にはソ連が初の水爆実験を実施して追いついてきていたのである。しかも、米国の水爆が極低温の液体重水素を使う、とても兵器としては使えそうもない巨大な実験装置然としたものだったのに対して、どうやらソ連の水爆はより小型、かつ取り扱いが面倒な液体重水素など使用していないという情報が入ってきていた。
 ずっと後に、ソ連が初の水爆として宣伝した核爆弾「RDS-6」は、水爆というよりは「一部核融合反応も起こす原爆」という程度のもので、完全な水爆ではなかったことが判明した。が、ソ連が水爆開発で米国に追いつき、追い抜いた可能性があることに米国は深刻な危機感を抱いた。なんとしても早期に爆撃機に搭載可能な水爆、実戦で使用可能な水爆を開発しなくてはならない

 かくしてキャッスル作戦では2カ月半の間に水爆6発を爆発させる強行日程で実験を実施することになった
 実験にあたって米国は危険水域を設定し、船舶に対して入らないようにと警報を発した。だが事前の爆発力計算には誤りが入り込んでいた。水爆の爆発力を過小評価してしまったのだ。
 昭和29年(1954年)3月1日、東京では改進党と自由党が日本初の原子力予算を盛り込んだ昭和29年度予算修正案を事前協議したまさにその日の現地時間午前6時45分(日本時間午前3時45分)、キャッスル作戦最初の水爆爆発実験「ブラボー」が行われた

ブラボー実験の爆発で直径7kmもの火球が発生した(1954年3月1日、ビキニ環礁にて。Wikipediaより)。

 核爆弾の爆発力は、同等の爆発を起こすTNT爆薬の質量で表す。ブラボー実験に使われた水素爆弾「シュリンプ」はTNT換算で6メガトン(600万トン)の爆発を起こすと計算されていた。しかし実際には15メガトンと2.5倍の爆発を起こした。爆発により直径7kmの火球が発生し、閃光は400km離れたクウェゼリン環礁にまで届いた。シュリンプを設置したビキニ環礁の小島は消え去り、後に直径1.8km、水深120mものクレーターが残った
↓ クリックして下さい 画像が見られます。
https://maps.google.com/maps?t=h&q=11.697222,165.271944&ie=UTF8&ll=11.697206,165.271969&spn=0.040343,0.054932&z=14&source=embed


 水爆は起爆機構に原爆を使う。また、「シュリンプ」は、核融合反応を十分な時間継続させるための閉じ込め構造(タンパー)に、ウラン238を使用していた。ウラン238核融合反応から出た大量の中性子線でさらなる核分裂を起こし、エネルギーと放射性同位体を放出する。加えて中性子線は、破砕された珊瑚礁の構成物質を放射性同位体へと変化させた。爆発で生成した大量の放射性同位体を含む粉塵と珊瑚礁の破片は、はるか成層圏にまで吹き上げられ、西から東へと吹くジェット気流に乗り、事前に設定した危険水域を超えてビキニ環礁東方へと拡散していった


被曝は操業最終日に起きた
 この時、静岡県焼津市・焼津港を母港とするマグロはえ縄漁船、第五福竜丸は米国の設定した危険水域の外にいた昭和22年(1947年)竣工した木造140tの遠洋漁船で、被爆時には遠洋漁業指揮を執る見崎吉男漁労長以下18歳から39歳までの海の男23名が乗り組んでいた。1月22日に焼津港を出港。当初はビキニ環礁のあるマーシャル諸島よりもずっと南のパプア・ニューギニア東方に拡がるソロモン海で漁を行う予定だった。
 しかし出航後、乗組員はハワイ西方のミッドウエー方面を目指すと告げられた。ミッドウェーの海は荒れるので漁師は行きたがらない。一層の漁獲を狙った船主が、漁師には伏せて行き先変更を漁労長に事前に命じていたのだった
 2月7日、目的海域に到達してはえ縄漁を開始したが、はかばかしい漁獲が得られなかった。船上では操業海域をかえる相談が行われた。見崎漁労長はより北に向かおうと提案したが、荒海を嫌う船員達は、より波の静かな南の海を主張した。漁労長は自説を強く主張せず、第五福竜丸は南のマーシャル群島東方海域へと向かった

 その後も漁ははかばかしくなかったが、2月末にはどうやら赤字を出さない程度の水揚げを確保できた。船の燃料も乏しくなりつつあったので、2月27日、漁労長はあと1日だけ漁を行って、焼津に帰港すると決めた
 3月1日は真っ暗な早朝からはえ縄を海に降ろす作業を行った。現地時間午前6時半に作業は終わり、一仕事を終えた漁師達は仮眠を取ったり、ぼんやりと海を眺めていたりした。天気は晴れから曇りへと移りつつあった。ほんの少し夜が明け、薄ぼんやりと水平線が見えるようになりつつあった午前6時45分、突如西の空が真昼のように明るくなった
 天測を行っていた漁労長以下、甲板にいた数人はびっくりして他の者らを甲板に呼んだ。 ピカドンだ」と口に出して言う者もいた。明るく拡がった光は数分でだんだん薄れ、代わって夜明けがやってきた光から7〜8分後、不安を抱えたまま彼らが朝食を摂り始めたその時、今度はとてつもない衝撃波と轟音が船を襲った
 後の証言によると、彼らの一部は閃光が見えた時、とっさに「原爆ではないか」と思ったという米国が広島と長崎に落とした原子爆弾がどんなものかという知識は、遠洋漁業に従事する漁師も共有するところとなっていた

 避難のため、急ぎ彼らははえ縄を引き揚げ始めた。しかし何十kmにも及ぶ長大なはえ縄の引き上げには時間がかかる。天候は悪化し風雨が強まった。彼らの証言を読むと、この時の風雨はブラボー実験で生じた上昇気流が起こしたもののようにも思える

 閃光から約2時間後。作業を続ける彼らの上から、大量の白い灰状の物質が降ってきた
 降灰は5時間も続き、甲板にびっしりと堆積した灰混じりの風雨が横殴りに吹き付ける中、漁師達ははえ縄引き揚げ引き揚げ作業を続けた風雨は目や口にも入った。灰をいぶかしみ、口に入れて味を見る者もいた。現地時間の午後1時半、はえ縄を引き揚げた第五福竜丸は北に向けて海域脱出を図った
 船を指揮する漁労長、船長、無線長などは、光と音方向、時間差などから、米国がビキニ環礁で核実験を行ったと推定した。無線長で乗組員最年長だった久保山愛吉氏は無線を封鎖した。米国に傍受された場合、スパイ容疑で拘束される恐れがある。拘束だけならともかく、口封じに消されるかもしれない、と考えての処置だった。乗組員の中には太平洋戦線従軍経験者もいた。米国に対する警戒感は当然といえた。

 帰りの航海は順調だったが、同日夕刻より乗組員の体調に変調が現れた。まず軽い下痢と吐き気が起きた。数日すると皮膚が過度の日焼けを起こしたかのように黒くなり、手の平や首の周りに炎症が発生した。入港前日の13日には大量の脱毛を起こす者が出た
 3月14日早朝、第五福竜丸静岡県の焼津港に帰港した。乗組員を診察した医師は放射線障害の可能性が高いと判断し、紹介状を書いて症状の重い2名を東京大学附属病院に回した。東大病院の診断は「急性放射線症」。1名はそのまま入院となった。第五福竜丸の船体も、漁具もガイガーカウンターによる計測で強い放射線を発していることが分かった。

 この時、静岡県では3月10日に島田市で発生した幼女誘拐殺人事件(島田事件)が大きな話題となっており、新聞記者の目はそちらに集中していた。その中で読売新聞焼津通信局の若い記者だけが事態に気がついた。
 3月16日の読売新聞朝刊は、一面トップで「邦人漁夫、ビキニ原爆実験に遭遇 二十三名が原子病 一名が東大で重症と診断」と報じた。日本はおろか、世界中が騒然となった
 残る乗組員も無事ではなく、皆、白血球数減少などの典型的な放射線障害の症状を発症していた。3月28日、政府は焼津から乗組員全員を航空機で東京に移送するという異例の対応で、東京の国立第一病院と東大付属病院に分けて入院させた。白血球が減少している以上、鉄道移動で病気に感染させるわけにはいかなったのである



日米ともに穏便に事件を解決したかった
 第五福竜丸事件の影響は、大きく2つに分けることができるだろうまず日米間の対応。次に日本社会全般の対応だ
 まず米国の対応だが、読売新聞の報道で事態が表面化すると、3月19日にビキニ環礁周辺の危険水域を大幅に拡大した次に、第五福竜丸は事前に通告した危険水域内に入っていたのではないか、米国の核実験を探るスパイ行為をしていたのではないかと嫌疑をかけた。 事件発生時の米国社会はスパイと共産主義者摘発の熱狂の渦中にあった。1950年にはローゼンバーグ事件が起きてる。ドイツ出身の科学者ジュリアス・ローゼンバーグとその妻エセル・ローゼンバーグがソ連に核開発の機密情報を流した容疑で逮捕されたのだ。証拠は共犯者の自白のみで夫妻は無実を主張した。しかし、1951年の判決は死刑。第五福竜丸事件の前年の1953年6月19日、刑が執行された。この事件は今なお謎が多いが、当時は知識人を中心に助命運動が行われ、死刑執行にあたっては米国の世論は真っ二つに分かれた。

 1954年当時、このようなスキャンダラスな事件や、核爆弾開発でソ連が追いついてきているという事実を背景に、共和党上院議員のジョセフ・マッカーシー(1908〜1957)を中心に、政府中枢にいるとされた共産主義者シンパの摘発が進んでいた。いわゆる「赤狩り」だ赤狩りは政府中枢部からハリウッドの映画スターにまで及んだ。例えば世界的喜劇俳優チャーリー・チャップリン(1889〜1977)は、赤狩りにより1952年に事実上の国外追放処分となり欧州へと去っている。 第五福竜丸事件が起きた時、米国では、マンハッタン計画の指導者でありながら、戦後は水爆開発に反対し続けていた物理学者ロバート・オッペンハイマー(1904〜1967)への審問が行われていた彼は米原子力委員会のアドバイザーであったが、第五福竜丸事件の余波が続く4月12日、米原子力委員会はオッペンハイマーを休職という名目の、事実上の公職追放処分とした。その後オッペンハイマーは生涯にわたってFBIの監視下に置かれ、公職に復帰することはなかった。 オッペンハイマーに代わって、熱烈に水爆開発を主張する物理学者エドワード・テラー(1908〜2003)が核兵器開発の実権を握った。キャッスル作戦はテラーが発案、指導したものだった。要するに、第五福竜丸事件発生時の米国は、誰がどうつついても「スパイだ!」「共産主義者の仕業だ!」と叫びだしかねないヒステリックな状況にあった

 一方、日本政府はといえば、つい先だってまで日本を占領していた米国を刺激してはまずいという立場にあった。経済的には未だ復興途上の状態で、これからまだまだ米国経済を当てにしなくてはいけないのだから米国の機嫌を損ねるわけにはいかない。もちろん、アトム・フォー・ピースで米国から原子力技術を入手できる可能性が出て来たところで、国民に反原子力の気運が出てくるのはまずいと思ったろう
 これに対し、冷戦が深まるにつれて、米国にとっての日本は対共産圏の防波堤という位置付けを強めていた。自衛隊は昭和25年(1950年)に警察予備隊の名称で発足したが、その後、保安庁という名前になり、第五福竜丸事件の3カ月半後の7月1日に防衛庁となる。これは、日本を共産圏の防波堤とするという米政策と、やはり軍事力は必要と考える日本政府との思惑が一致した結果だった
 つまり、米国としても日本の機嫌を損ねることはできなかった。第五福竜丸事件をこじらせて、日本で大規模な反米運動が発生。その勢いで親ソ政権が誕生な どという事態は、米国にすれば悪夢以外の何物でもなかった
 この状況で、両国政府には期せずして同じ動きが生まれた。「さっさと事件を終わらせてしまおう」というわけだ
 被爆時の第五福竜丸の位置は、航海日誌から確認できた。北緯11度53分、東経166度50分。ビキニ環礁の東方約160kmの位置だ。一方米国の設定した危険水域は、北緯10度15分から12度45分、東経160度35分から166度16分の矩形の水域だった。第五福竜丸の位置は、危険水域の東の縁からは約30km離れていた。
↓ クリックして下さい画像が見られます
http://pc.nikkeibp.co.jp/article/column/20121225/1074966/thumb_450_2_px450.jpg

第五福竜丸が被曝した位置と、米国が設定していた危険水域(赤で囲った四角の部分)。キャッスル作戦ではビキニ環礁と西隣のエニウェトク環礁で爆発実験を実施する予定だったので、両環礁を囲むようにして危険水域が設定されていた。第五福竜丸は危険水域の東側にいた。第五福竜丸のほぼ真南に位置するロンゲラップ環礁でも住民64人が重度の被曝被害を受けた

 これにより危険水域進入の嫌疑は晴れ、またスパイ容疑も薄らいだ。スパイなら危険水域ぎりぎりに接近して核爆発を観察しようとするからだ。同時に、日本側には米国に対する賠償請求権が発生した日本側は後で述べる海産物の風評被害も含めて、被害額を15億円と算定した
 結論だけ書くならば、日本政府は米政府に対する責任追及を行わないと約束した。その約束を前提に、米政府は翌年1月、日本に対して補償金ではなく「見舞金」として200万ドル(当時は1ドル360円の固定相場制だったから邦貨換算で7億2000万円)を支払った米国は責任を認めず、しかも日本が算定した被害額を半分以下にまで値切ったわけである。それでもドルの闇相場などというものがあった時代だから、200万ドルというのはかなりの額だった。ちなみに昭和29年度(1954年度)の日本の一般会計予算は1兆408億円だった
 この補償金は、第五福竜丸の被害者への補償だけではなく、風評被害で売り上げが落ちた水産業全般への補償として使われた。が、その過程で官僚からの天下りを抱えた業界団体多数が、補償金をむしり合うという、なかなか日本的な風景も現出した。中にはせしめた補償金でビルを新築する業界団体もあった。 第五福竜丸乗組員への補償金は1人200万円。死亡した久保山愛吉氏の補償金には上乗せがあった。当時としては大金ではあるが人生行路を無理矢理曲げられ、その後を健康被害に怯えつつ生きねばならなかったことを考えればはした金である。今ならば生涯賃金から逸失利益を算定するので、こんな額では済まないだろう。
 それでも、まったくひどい話ではあるが、彼らには漁師仲間から「いいよな、ピカ浴びてカネ貰ってぶらぶら暮らせるなんて」という妬み・やっかみも集まったという。それだけではなく、彼らは様々な局面で、有形無形の妬み・やっかみにぶつかった。生きるか死ぬかの治療を受けていた東京の病院では、「彼らだけ特別扱いされている」と他の入院患者から言われたという。
 当時の日本は貧しかった。 「ピカ浴びても金欲しい」と安易に思ってしまう人は決して少なくなかったのである。


原子マグロの買い控えと反核運動の成立

 日本社会はといえば、主に2つの影響が出た。一つは、マグロから放射性物質が検出された事による水産物全般の買い控えだ第五福竜丸が持ち帰ったメバチマグロガイガーカウンターが反応したことから、日本政府は太平洋に出漁した漁船のすべてを塩釜、東京、三崎、焼津、清水の5つの漁港に集めて漁獲物の全検査を行い、ガイガーカウンターに反応があったものはすべて破棄した。特にマグロは「原子マグロ」と呼ばれ490 トンもの水揚げが東京湾の埋め立て地に埋設破棄された。これに伴い、水産物全般に深刻な買い控えが起きた。人々が過敏に反応し、魚類全般を食べなくなってしまったのだ。生の魚から干物、蒲鉾に至るまでが売れなくなり、漁師だけではなく加工業者や小売業者、寿司屋までもが収入減にあえぐことになった

 人々は、「長崎の鐘」で広島や長崎に起きたことを知っていた。知っていたといっても、正確な事実を理解していたわけではないだろう。そもそも当時は、放射線の被害の科学的な研究も進んではいなかった。原爆によって、なにか今までとは質の違うとても恐ろしい被害が発生するという程度の理解だったはずである。
 理解のとっかかりは、 「ピカっと光ってからドンと来るからピカドンだったり「髪の毛が大量に抜けて丸坊主になる」であったり、 「朝に元気だった人が夕方にぽっくりと死ぬ」だったりした。同時にそれらは「広島と長崎のこと」であって有り体に言えば被曝当事者以外の大多数の日本人にとっては他人事だった。 その他人事が、突如として原子マグロという形で身近に出現した。そして海はどこまでもつながっている。マグロに感じる恐怖はすぐに海産物全般に拡がり、極度の買い控えにつながったのだった。
 やがて日本人は、海だけではなく空もつながっていることを思い知らされることとなった雨から放射性物質が検出されるようになったのである。ブラボー実験で成層圏に拡がった放射性物質ジェット気流に乗って地球をほぼ一周して日本上空にも巡ってきたのだ。 米国は第五福竜丸が被曝したからといって水爆実験をやめなかったキャッスル作戦は、その後ロメオ実験(3月27日)、クーン実験(4月7日、失敗)、ユニオン実験(4月26日)、ヤンキー実験(5月5日)、ネクター実験(5月14日)と、予定通り水爆爆発実験を実施した米国だけではなくソ連もイギリスもフランスも、後には中国やインドも核実験を行った核実験は続き、そのたびに日本には放射性物質が降り注いだ。冷戦時、これを避ける術はなかった日本人は、「雨を浴びたら頭が禿げる」などと言いつつ、この環境に慣れていくしかなかった

 と、同時にこの当時の日本人は怯えているだけではなかった。読売のスクープから2日後の3月18日遠洋マグロ漁の母港である神奈川県・三崎町議会が 「原爆使用禁止決議」を採択した。27日には焼津市議会、30日には東京都議会と、地方議会の抗議決議は全国に拡がっていった国政においても4月1日に 原子力の国際管理に関する決議」全会一致で採択され、4月5日には参議院 原子力国際管理並びに原子兵器禁止に関する決議」採択された。 そのような人々の怒りは、まず被曝した漁師達への激励となって現れた。彼らの入院する病院には励ましの手紙や見舞い品が多数届くようになった。23人の健康は国民の一大関心事となった

 夏が過ぎ、9月23日に無線長の久保山愛吉氏原水爆の犠牲者は,わたしを最後にしてほしい」という言葉を残して死亡すると、怒りは原水爆禁止運動になだれ込んだ原水爆禁止の署名運動は、昭和29年(1954年)12月末までに2000万人を超える署名を集め、翌昭和30年(1955年)8月6〜8日には、第1回原水爆禁止世界大会が広島で開催された。

( 前回、科学者、産業界、一般国民、政治家と、原子力発電に関わっていくグループを見てきた。第五福竜丸事件から第1回原水爆禁止世界大会開催という流れの中で、でもう一つのグループ、すなわち反核運動というものが成立する。 核兵器反対運動は原発反対運動を派生し、その後長く日本の原子力発電に影響を及ぼしていくことになった。)

 (この件、続きます。)

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著者プロフィール
松浦晋也(まつうらしんや)】
ノンフィクション・ライター。宇宙作家クラブ会員。 1962年東京都出身。日経BP社記者として、1988年〜1992年に宇宙開発の取材に従事。その他メカニカル・エンジニアリング、パソコン、通信・放送分野などの取材経験を経た後フリーに。nikkeiBPjnetに「松浦晋也の『宇宙開発を読む』」を、SAFTY JAPANに書評を、それぞれ連載中。
著書:
「H-IIロケット上昇」(日経BP社、1997年)
「われらの有人宇宙船」(裳華房、2003年)
「国産ロケットはなぜ墜ちるのか」(日経BP社、2004年)
スペースシャトルの落日」(エクスナレッジ、2005年)
「恐るべき旅路 火星探査機のぞみがたどった12年」(朝日ソノラマ、2005年5月)
「日本列島は沈没するか?」(共著:早川書房、2006年)
エルピーダは蘇った」(日経BP社、2006年)
「宇宙へのパスポート3」(笹本祐一著、解説者として参加、2006年)
「コダワリ人のおもちゃ箱」」(エクスナレッジ、2007年)
「昭和のロケット屋さん」(共著:エクスナレッジ、2007年)



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◎.以前、「原子力の扉はこうして開かれた」。という、シリーズ物を勉強しながら我れ自身の備忘録としてUPしましたが、原発の歴史も「孫崎 享」さんの「戦後史に沿う形」でウエブで拾える記事を揃えて於ければ良いなと思ったところでした。(keniti3545)


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