「keniti3545」since72:1月7日(月)晴れ−7℃「東日本大震災」「311フクシマ」669日 今日の一題「原爆・ビキニ・311フクシマ.を忘れるな!」
*朝トレ:8時30分〜9時30分 冬の朝〜冷たい空気だけど良い気持ち〜!
そう、マネージャーの許可無しで飛び出しました! 「大丈夫、大丈夫、気持ち良い〜」です。やっぱり冷たく(寒く)ても、 「トレーニング(?)は朝が良い」で〜す。
重装備は勿論です、でも途中顎マスクにして「臓器の寒風摩擦」(?)も忘れません。倉井さんだってもう庭に出ている。やっぱりな〜、彼だって「我れの4個だけ年下」、 10人会に集う仲間だって皆これからだよ〜って顔してるもの。お、ま、テロップが回るほどの運動量ではないが・・・、走なし、強歩・速歩&ストレッチのみで1時間、「我流B下メニュー」完でした。
*「東日本大震災」「311フクシマ」669日
*今日の一題 「ビキニ:日本人はこんな事件を忘れても良いのか!」!!
過去にも多くの「ブログ仲間」が取り上げていますが、生のニュースが記憶に残っているのは60代後半からだと思います。 原爆・ビキニ・「311フクシマ」 これだけ「大きな放射能被害を受けている日本」であることを伝えていかなければならないこと胆に命じます。
2013年01月07日12:08 (原発のウソさんから)
被曝関連東京(中日)新聞
【日米同盟と原発】第4回「ビキニの灰」 (1)第五福竜丸の衝撃
一九五四(昭和二十九)年三月一日、太平洋のビキニ環礁沖で操業中のマグロ漁船「第五福竜丸」が米水爆実験に巻き込まれた 「ビキニ事件」 船は大量の放射能を含む「死の灰」を浴びて二十三人の乗組員全員が被ばく。
さらに幅広い海域で汚染された魚が見つかるなど、その被害は庶民の食卓にまで及んだ。世論が激しく反発する中、日米両政府は被ばくの恐怖をひた隠し、事態の沈静化を急ぐ。
広島、長崎の原爆からわずか九年、再び核の犠牲になった日本。それでもなお原子力開発へ突き進んだのはなぜか。その背景を探った。 (文中・表の敬称略、肩書・年齢は当時)
◆西から昇る太陽
一九五四(昭和二十九)年三月一日、日本の南東三千五百キロ先の太平洋マーシャル諸島沖。その年の一月下旬、静岡県焼津港を出発したマグロ漁船「第五福竜丸」は、メバチマグロなどを狙って操業を続けていた。
戦後初の原子力予算二億七千五百万円(現在の三十億円相当)を盛り込んだ政府の修正予算案が衆院本会議で可決される三日前だった。
東経一六六度、北緯一二度。「地上の楽園」といわれ、美しいサンゴ礁の広がるビキニ環礁は百六十キロ西にあった。二〇一〇年、世界遺産に登録されるビキニ環礁は当時、国連の信託統治下。ところが、実質的な支配力を持つ米国は第二次大戦後の一九四六年以降、周辺住民を移住させ、原爆などの核実験場にしていた。
第五福竜丸が出港する三カ月ほど前の五三年十月、米海軍はビキニ環礁の周辺海域を危険区域に指定し、日本政府に伝えた。公式発表はないが、近く核実験を行うという事実上の通告だった。第五福竜丸も海上保安庁を通じてこの情報を入手していた。念のため操業地点を警戒区域の境界から三十キロ沖合に離し、万一に備えていた。
第五福竜丸の乗組員は二十三人。十〜三十代の若い男たちばかりだった。生存者の一人で現在八十五歳の見崎進は当時、二十七歳の操舵(そうだ)手。見崎によると、船はその日午前四時から漆黒の海へはえ縄を投げ入れ、漁を始めた。 「波は穏やかで、見上げると空いっぱいに星が輝いていた」
船に異変が起きたのは三時間余り後、大海原に薄日が差し始めたころだった。甲板で朝飯を済ませ、船首へ向かって歩いていた見崎は左手に目もくらむような強烈な光をみる。 「昼間のようにパッと明るくなった」
その十分後。海底がせり上がるように「ゴゴゴゴー」という地鳴りを上げ、それまでなぎだった海面が波打ち始めた。西の空から不気味な入道雲が船に迫り、船内は騒然となった。
このころ、現在八十歳の池田正穂は甲板下の機関室で機械を点検中だった。当時二十一歳。若い操機手だった。
池田は「上の方で先輩らが『太陽が昇ったぞ』 『バカ野郎、西から上がるか』などと言い争っている声が聞こえた」と証言。 「早く逃げろ」という怒声で、慌ててエンジンのスイッチを入れたのを記憶している。
午前十時ごろ、池田が外気を吸いに甲板へ上がると、まるで銀世界だった。が、気温二六度の太平洋上で、雪なぞ降るわけがない。得体(えたい)の知れない白い粉が甲板に一センチも積もり、歩くと長靴の跡がくっきり残った。
見崎は閃光後も甲板に残っていた。長袖を着ていたが、露出した頭や首筋、手などに白い粉を直接浴びた。二、三日後、首の後ろが激痛に襲われ、手の甲に水膨れができた。腹痛と下痢が続き、帰港間近には髪の毛も抜けた。 「普通じゃねえ」と思った。
他の乗組員も似たような症状を訴えた。誰もが白い粉のせいと思ったが、怖くて口に出せなかったという。
強烈な光、地鳴り、白い粉…。すべては米国がこの日、ビキニ環礁で実施した水爆実験が原因だった。
白い粉は爆発で上空に吹き飛んだサンゴの残骸。大量の放射能を含んだ「死の灰」だった。米国が指定した危険区域をはるかに越えて百六十キロ先の第五福竜丸にまで降り注ぎ、乗組員全員が被ばくした。
米国は軍事機密を理由に水爆実験を公表しなかったが、最年長の無線長、久保山愛吉(39)は気づいていた。船の異変を無線で知らせれば、傍受した米軍に拿捕(だほ)されると思い沈黙を通した。
「船がドカンと受けたのを米国に知られたら連行される」。操機手の池田は、久保山が漏らしたひと言を今も覚えている。
三月十四日、第五福竜丸は焼津港に戻った。その二日後、新聞報道をきっかけにビキニ事件が明らかになり、国民を震撼(しんかん)させる。戦後日本が平和利用の名の下に原子力開発への一歩を踏み出す時期とまさに重なっていた。
東京新聞 2012年12月25日
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「プラス1」 ”世知辛い世に褒め言葉を”
褒めの効用
雷鳴抄 (1月7日 下野新聞朝刊)
家々の軒下に立ち、年の初めをことほぐ。門付けの万歳はかつて各地で見られた祝福芸だった
▼ 「ポンポンという鼓がどこからともなく聞こえてくると、やがて『おめでとうござい』と二人組の万歳がわが家の玄関に立ち、何やらよくわからない文句を唱えはじめました」。戦前の東京の下町。少年は彼らの姿をじっと見詰めていた
▼長じた後、俳優となった少年は、各地に諸芸能を求め歩いて記録を残し 「日本の放浪芸」などの作品に結実させる。昨年12月に83歳で亡くなった小沢昭一さんは、芸能の森に深く分け入った優れた研究者でもあった
▼ 「声涙ともに下る」といった、時代めいた言葉をさらりと電波に乗せる小沢さんに魅せられ、話を聞きにいったことがある。ハッとさせられたのは 「枯淡の味」をあくまでも退けようとする発言だ。年を重ねても、枯れた演技や話芸を志向しない。猥雑なものに脈打つ民衆のパワーを愛し、価値を認めた
▼自らも門付けの万歳を実践した。小沢さんは、これを「褒め」の芸能と位置づけている。褒めることが人の才能を伸ばす。自信をつけさせる。そう主張する一方、空々しく褒めることの意義も説いた
▼対象は国家や権力の作為。民衆のしたたかさを内に取り込み、そこから発信し続けた異才だった。
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◎.上記、下野新聞の「褒め」とは少々次元の違いはありますが、皆さんは孫をどのように褒めますかね?「一押し」をお持ちでしたら是非教えて頂きたいと思いますが・・・虫が良すぎますかね・・・? (keniti3545)
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