「keniti3545」since72:8月07日(火)晴れ23℃「東日本大震災」516日 今日の一題「8・6国民は心に刻み反芻する」

*朝トレ:今日も昼時「お爺さん散歩」にシフト(マネージャーの指導入りでした)11時30分〜12時20分

注:myコースは、繁茂する木葉のアーチがコースを覆う特注の環境が整っているので太陽が中天にあろうとも直射日光を浴びる事はありません。


なでしこジャパンに魅せられてまたまた寝不足・今日は愛ちゃん達の卓球も決勝・そして「侍ジャパン」男子サッカーも準決勝!まだまだ懲りずに応援します!  (永井の穴どう埋めるかシミュレーション出来ていますか?)

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*線量測定日(毎週火曜日)

◎.全てのデータ (原則)地表2cmの測定とする1点6回の測定:高順位値2点の記録  (毎回市へはデータ提出

東:自宅外(から)距離 30m 堤防上

北:自宅外(裏)空き地、雑草有り、西北に防風林有り、

南:自宅敷地内ベランダ(ブロック塀あり)

西:自宅敷地内雨樋下

M:細尾町モデルセンター庭

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 (7月31日)前週の測定値

東:0.32 0.30μSv/h 西:0.32 0.25μSv/h 南:0.74 0.57μSv/h 北:0.30 0.28μSv/h 

M:0.39 0.30μSv/h

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↓ (2012.08.07)

8月7日 本日の測定10時00分〜11時30分  

東:0.23 0.21μSv/h 西:0.32 0.30μSv/h 南:0.79 0.77μSv/h 北:0.27 0.27μSv/h 

M:0.32 0.25μSv/h

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今回の条件、天候晴れ(風微)  

◎.ホットスポットは今回も、南:max=0.79μSv/h  



◎.測定ポイント5点:各々平均値の、『平均値』= 0.31μSv/h   



◎.『測定開始日&測定値=2011.11.22 [0.19μSv/h]』


『前8週の平均値比較』 

単位:μSv/h

日付2012・8月・07日   

6/13   6/19   6/26   7/03   7/10   7/17   7/24  7/31  8/07    

8週前  7週前  6週前  5週前  4週前  3週前  2週前  1週前  本日

0.35    0.32   0.30    0.35    0.31    0.28   0.31   0.30   0.31


◎.測定値に大きな変化は出ていません。

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*「東日本大震災」516日



今日の一題  「8・6と首相」 ”問われる原発ゼロの道”

「8・6」(断末魔の首相に決意を問うても仕方無い)我々国民がそれぞれに「個」として語り継がなければならない ”放射能被災”の 悲惨さをこれからも反芻して心に刻む日だ!!) (keniti35453545)



2012年08月07日 中国新聞の社説 (NuclearF.C:原発のウソより)

8・6と首相 問われる原発ゼロの道 


当時13歳だった被爆者の証言。遺体の収容作業に当たったという。「覚悟を決めて指先に力を入れると、滴が垂れた。臭い。骨が握れた。いちにのさんでトラックに積んだ」。今年の平和宣言の一文である。

 被爆67年。私たちは原爆の恐ろしさを理解しているつもりでも、まだまだ表面にすぎないのだろう。松井一実広島市長は昨年に続き、被爆証言を宣言に引用した。被爆者の絶望や苦悩も全て引き継いでいく。生々しい表現を引用したところに、市長の意志が感じられる。

 平和宣言には、福島第1原発事故によって放射線被害におびえる福島の人々へのメッセージも盛り込んだ。「必ず訪れる明日への希望を信じてください。私たちの心は、皆さんと共にあります」

 言葉に偽りはないだろう。ただ福島の地に、この思いが実感として届いただろうか。

 原発の是非への言及は避けている。「市民の暮らしと安全を守るためのエネルギー政策を一刻も早く確立してください」と言うにとどめた。フクシマに寄り添うならば、一歩踏み込んで脱原発依存に対する国の姿勢を問うてほしかった。物足りなさを感じた参列者もいただろう。

 真意がつかめなかったのは、野田佳彦首相である。平和記念式典に参列し、あいさつの中でこう言った。「脱原発依存の基本方針の下、中長期的に国民が安心できるエネルギー構成の確立を目指します」と。

 脱原発依存」という言葉を確かに使ってはいる。だが実際は反対方向へ動きだしているのではないだろうか。野田首相は「自分の責任で判断した」と、原発再稼働にかじを切った。

 今、中長期のエネルギー政策が大詰めを迎えている。式典後の会見では「将来、原発依存度をゼロにする場合にはどんな課題があるのか閣僚に指示する」と述べた。遅きに失した感はあるが、この際、徹底的に課題を洗い出してもらいたい。

 首相は近く、脱原発を求め官邸前で抗議行動を呼び掛ける団体の代表と面会する予定だ。同じ日に、原発再稼働を推進する経済団体幹部とも意見交換するという。

 国の場当たり的な姿勢とは逆に、脱原発依存を望む世論のうねりが生じているのは確かだろう。それは原発事故から2回目の原爆の日にも、多くの人が感じ取ったに違いない。

 冒頭の被爆体験を寄せたのは府中市中村博さん(80)。きっかけは、原発事故と再稼働への動きだったという。「今こそ声を上げなければ。時がたつと忘れてしまう」。使命感が言葉に宿っているようだ。

 フクシマの被災者も「できること」を懸命に探していた。原発の是非を問う国民投票の実施を求め、原爆ドーム前で署名を呼び掛けていた。「原発反対と言うだけでは何も変わらないから」。昨年9月からほぼ毎日、ここに立っているという。

 「核と人類は共存できない」と、ヒロシマ核兵器の廃絶を訴えてきた。では核の平和利用をどう考えるのか。国内外から、広島市民一人一人が問われている気がしてならない。


 大いに議論する時ではないか。フクシマの思いを受け止め、代弁していく―。被爆地の新たな使命をかみしめたい。
中国新聞 '12/8/7


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「プラス1」 国民は心に刻む!


 東京新聞の社説 原爆忌に考える 

ヒロシマに耳澄まし 原爆忌。未来への希望をうたう平和宣言に、ことしも「脱原発」の言葉はないようです。もっとヒロシマを語ってほしい。私たちは耳を澄ましています。

 3・11。言葉は瞬時に凍り付き、閉ざされた記憶が一気に溶けだしました。過去、現在、そして未来が重なり合ったとき、そこに何が見えたのでしょう。

 広島市安佐南区、広島共立病院名誉院長の丸屋博さん(87)は、御庄博実(みしょうひろみ)の筆名を持つ詩人です。岡山医大結核で休学中に詩作を始め、「原爆詩集」で知られる峠三吉とサークル誌を編んだこともありました


◆黒い津波はすさまじく

 六十七年前のあの日、丸屋さんは、旧制広島高校から進んだばかりの医大を空襲で焼かれ、ふるさとの山口県岩国市に帰省中でした。陸軍燃料廠(しょう)で働く妹に、広島が壊滅したと聞かされ、旧友や幼なじみの安否を気遣い、丸屋さんが旧国鉄山陽線に飛び乗ったのは、原爆投下の二日後でした。

 広島までは電車で入れず、一つ手前の己斐駅(今の西広島駅)で降ろされました。建物はすっかりなぎ払われて、遠く瀬戸内海に浮かぶ似島が見渡せました。

 熱で曲がった路面電車の線路を伝い、異臭の中を一日歩き回っても、友人、知人を見つけることはかないませんでした。

 夕暮れて、駅へ戻ると、足もとからか細いうめき声が聞こえてきます。あおむけに横たわる半裸の若い男性の胸のあたりに、小さな穴が開いていました。血の混じったあぶくと一緒にハエが一匹、そこを出入りしているのが見えました。その時に目にしたすべてのものが、廃虚と化した東北のまちに重なりました。残留放射能の見えない渦をかき分けて、親しい人を捜し歩いた長い一日の記憶が、です。
 
 黒い潮の土煙のすさまじさに/広島の記憶が重なった/僕はテレビの画面で凍った(黒い津波

 愛用のパソコンに向かって言葉を絞り出すまでに、数日間の葛藤がありました。

 内科医の丸屋さんは、被爆者の健康を見守り続けてきた人です。放射線の遺伝的影響に関する論文も書きました。そして、自らも被爆者として、次々に発症するがんと闘い続けています。

 「原爆も原発も同じこと。人間には制御できないもの。子どもたちの未来を奪うもの」だと痛感しています。


◆歩かされた長い道

 丸屋さんはことし六月、石川逸子さんと共著の詩文集「哀悼と怒り」(西田書店)を上梓(じょうし)しました。

 何に対する怒りでしょうか。丸屋さんにも分かりません。

 無慈悲な自然、暴走する科学、事故を起こした電力会社や機能不全の官僚機構、無責任な政府だけではないでしょう。目先の豊かさを追い求め、哀(かな)しい過ちを繰り返す、人間そのものへの怒りなのかもしれません。

 この道も何年か歩いてきた/いや 歩かされてきた 道/行く先には果てしなく広がる/プルサーマルという沃野(よくや)があるという/夢のエネルギー政策という呪文(青い光、詩集「原郷」より)

 原爆忌の式典で広島市長が読み上げる「平和宣言」は、昨年も格調高い名文でした。ところが、原発事故にはもう一歩、踏み込むことができません。

 つい先月まで、ことしは「脱原発」に触れると言いながら、やっぱり「安全なエネルギー政策の方針を一刻も早く確立するよう政府に求める」程度にとどめることになりそうです。平和宣言だからでしょうか。でも平和とは、戦争がないということだけではないはずです。

 広島平和記念資料館には、原発原発事故に関する展示がありません。ボランティアガイドを務める橘光生さん(71)は「ここに答えはありません」と考えます。

 橘さんは「唯一の被爆国日本に五十基もの原発があることは、海外の目には奇異に映るでしょう」と来館者に語っています。

 しかし結局、悲しみも怒りも感動も、人それぞれのものだから。誰かに教えられるものではなく、見て、聞いて、感じて、考えて、自分で見いだすものだから。


◆核の怖さを知るまちに

 ならばなおさら、核の怖さを知り尽くしたヒロシマの言葉と声を、もっとたくさん聞かせてほしい。ヒロシマの怒りやナガサキの祈りにもっと近づきたい。フクシマにも届けたい。


 8・6。平和宣言に耳を澄まして、今はまだ言葉にならない何かを感じ、何かを始められるよう、ヒロシマに心を傾けます。
東京新聞 2012年8月6日


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