「71才の365日」3月25日(日)晴れ−3℃「東日本大震災」381日

*朝トレ:7時50分〜8時50分 

気温が+に転じた頃合いを見て準備完の独房へ今日は、「レモンティー」が届いた。う、「昨日の甘酒」と言い大地震でも来る? すいませんねーと心で、態度は「うん」と言って一口に飲み干していざ出陣!

 今日は、二つの「コース巡視」を予定していた。先ずは、ずっと待ち続けている本コース、やはり所々の残雪それも分厚い氷塊と化しておりちょっとこの先も手強い感じだ。それにしても、ほぼフルシーズン通しての「ポン友カラスのつがい」を初め、「すずめ」さえ見あたらず。結局80メートルコース3往復、コースの延長上大谷橋の袂までも「コンディション」確認を兼ねて散策したが。目にしたのは、「地鳩」の重そうな低空飛行と下手な着地のみ。

 この、ハト仲間の耳に付く鳴き声さえ我れの独房には届かないような気がする。そう、昨日大阪の友人からのメールには、今年は「むく鳥」「ヒヨドリ」「イカル」等渡り鳥の姿が少なく、「白菜・ブロッコリー等の」被害なく、「収獲が予想以上でうれしい」が一方では地震の影響か、放射能の影響も?と心配していた。

 そうですな〜以前に我れも覚えとして書き留めたが、今日も含めた「我れ近辺」には小鳥、小動物を目にする回数が例年より極端に少ないし、ブログ仲間の情報でも山林に住む野鳥の生態に変化ありかも?と言っている。

 堰堤降りて二つ目のコース目指す途中、いつもの大木戸橋を渡って、かん養保安林の裾野「S」カーブに差し掛かると「なんとなく」でも、「どうしても」体が勝手に走り出してしまう。今日はなだめて、ドームリンクのいり口でやめておく。

 駐車場には車が5〜6台、まだ利用者がいるんだ、「市営のリンク」だもっと効率よく利用してもらわないと日光のスケート熱もね〜。(この件、続きが合って家に帰って新聞地元チーム「バックス」アイスホッケーアジアリーグ決勝で王子製紙に惜敗とあった)視察の今日はここでも走らず。

「おや」林間学園の園庭にはまだ「徐染用の重機」(バックホー)が鎮座している。日光市の小学校は本格的な徐染はまだ実施されていないそうだ(計画中とか)。ちょっと心配。ドームリンクからこの林間学園までの路肩に桜の木が十数本あるが、目の届く範囲にはまだ「赤いつぼみは見えない」。先の大阪の友人はそろそろお花見の声がかかろうかといっていたが春の訪れにはずいぶんと差を付けられそうですな。
久しぶりに卵かけご飯おいしかったです!「シャワーは今日まで我慢しなさい」とのお達しです。 はい! です。






*「東日本大震災」381日

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今日の一題

「恐い津波地震  「それ以上の苦しみを作った」責任を取るときが来ています!! 


 この小さな島国で過酷な「自然災害と闘ってきた日本」、どんなに過酷な災害にも負けずに「必ず故郷を再生してきた日本人」。 更に、これらの戦いによってその都度強く逞しく、そして「同胞との強い絆を確認し合って生きてきた日本人」。 海外の被災にも多くの人道支援、物資の支援、いつも海外の人達にも「畏敬の念を持って見つめられてきた日本人」。

 それだけに、今回の東日本大震災に寄せられた多くの支援には、 「これまでの日本人の姿勢に尊敬と親しみが反映された想いが山盛りにつまっています」。 ところが、この気持ちに答えるべき我々が、実は、感謝の気持ちの前に、 「恥ずかしさを感じる人が沢山いるはずです」。

 どれだけいるのでしょうか? 「貧しい国々」の「貧しい人達」からも、心からの心配を受け、同情を受けてどれだけ励まされ、どれだけ奮い立った人達がいるのかを「心穏やかに」思い起こさなければ成らない『「東日本大震災」から1年』であるはずなのですが。この東日本大震災」と呼ばれる悲しみの中には、大きな、それは々大きな、比率の自分達が作りだしてしまった悲しみ(被害)が「一緒くた」にされているのです。

「311」フクシマ は私たち国民が勝手に自分達で作りだしてしまった災害なのです。よく考えてみましょう、今日のこの記事の中にも、 「あの裏山に階段があればもっと犠牲者を少なくできたのに」切実な反省と悔しさの弁がそこには湧いて来ています。本当の悲しさがそこにあります。

一方、原発事故では「どうして電源を確保しなかったのだ(出来なかったのだ)」、「何で毒物(放射性物質を)を閉じこめる方策をもっと厳重に施行してなかったんだ」と。 悲しみの言葉の前に人を責める言葉、損得計算 しかも、更に愚かさを上塗りしようとしているのです。 早急な「再稼働」などと。 


 戻って、比較しますが「地震津波」等の「自然災害」は、どれだけ科学技術が進歩しようと起きてしまってからの対応を余儀なくされます。そして、「体験を生かしながら」「自然と折り合いながら」その上で、利便さを追求していく人間の姿です。

 一方、「原発事故」は人間が作り出さなければ事故は起きません。そう、「原子力発電所を作らず、使わなければ」
事故は起きないんです。電気が足らなければ我慢しますと国民は言ってるんです。代替エネルギーも今研究が進んでいますよね。今年も節電、省エネに励みましょう!

原子力村」と「一握りの人達の利権」に協力する気は更々ありませんよね!

 原発導入時の「不純な欲求」、未だに「核爆弾が持ちたい」と思っている人達の企みに乗る気も更々ありません。ましてや今、「原発の再稼働」は要りません。本当に、「日本でもう一度原発事故が起きたら日本は滅びます」。日本人は、原子力と言う言葉を使い分ける訓練をされて来ましたが、 核兵器」も「原発」も元は同じ、「原子力発電所で爆弾造り」なんて言う事もあり得るんですから・・・。 

とにかく今は、「原発全停止」:「原発0」の維持。そして、「難民の子供達までが送ってくれた」「義援金」に心からありがとうを言える日本人に成りましょう!!! (keniti3545)

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(2012年03月24日09:17 カテゴリ Nucler FC)

地 震毎日新聞3/24 証言3・11: 東日本大震災 


児童、泣き叫び嘔吐 学校最多の犠牲者、石巻市立大川小 全校児童108人中死者64人、行方不明10人と、学校では東日本大震災最多の犠牲者が出た宮城県石巻市立大川小学校。
追波湾(おっぱわん)から同市長面(ながつら)地区に上陸した津波は、湾奥部の北上川河口から約4キロにある大川小の2階建て校舎、そして校庭から避難し始めた子どもたちと先生の列をのんだ。住民や関係者の証言から、激しい揺れにパニックに陥った学校の惨劇が浮かび上がる
。【百武信幸、堀江拓哉、遠藤拓】


 ◇校舎のんだ津波「裏山に階段あれば…」 
その時

 「ありがとうって伝えたくて」。3月11日午後、2階の4年生の教室に、育ててくれた父母への感謝の気持ちを込めた児童の歌声が響いていた。10歳を祝う「2分の1成人式」の記念DVD用に、担任の佐々木芳樹先生(27)が録音していた。武山詩織さん(10)は振り返る。「(歌の)2番にいかないくらいだったかな」。激しい揺れに歌声が悲鳴に変わった。校内は停電。机の下に入った子どもたちは先生の指示で校庭の真ん中に集まった。


 先生たちは児童を座らせ、点呼を取った。近所の人たちも避難してきた。当日、娘の卒業式で市外にいた柏葉照幸校長(57)は「この時、恐怖と混乱から泣き叫んだり、嘔吐(おうと)したりする子どももいた」と後日、報告を受けた。学校は、混乱していた。

 自宅から車で詩織さんを迎えに来た母久美さん(38)は学校到着を午後3時25分ごろと記憶する。「名簿を手に、迎えに来た保護者や避難住民に応対する先生たちもいた」。詩織さんを車に乗せ、アクセルを踏んだ。「津波はここまで来ない」と思いつつも、北上川より5メートルほど高い堤防近くの新北上大橋に向かい、さらに標高のある南を目指した。

 避難を呼びかけるため広報車で河口に向かった市職員、武山泰徳さん(53)は3時20分ごろ、学校から約1キロ海側の墓地近くにいた。「沿岸の松林の奥に水しぶきが見えた。津波だと思った」。Uターンして拡声機で繰り返した。「津波です。避難して」

 ■黒い波

多数の児童と教諭が津波の犠牲となった大川小(中央右)。左は裏山。奥に新北上大橋と北上川をのぞむ=宮城県石巻市で2011年4月17日、本社ヘリから小林努撮影

 大川小がある釜谷(かまや)地区の東隣、長面地区の農業、三條昭夫さん(75)は、妻喜久子さん(72)と車で釜谷地区に向かった。「80キロほど出ていたと思う。後ろから浮世絵に描かれた波を黒く塗ったような波が、縦にぐるぐる回転しながら迫ってきた。大川小前で校庭にいる子どもたちの姿が横目に見えた」

 学校では、体育館や校舎2階に避難できるか校内を見回った先生もいたが、避難住民とともに新北上大橋のたもとにある交差点に向かうことになった。その距離約200メートル。高さは堤防や校舎の屋根とほぼ同じだ。校庭から列になって釜谷交流会館の脇を通り、裏山沿いの裏道を歩いた


 同じ長面地区の永沼輝昭さん(70)と妻睦子さん(66)は6年の孫遼太君(12)、4年の和泉(いずみ)君(10)兄弟を迎えに車2台で学校に着いた。永沼さんは車外に出て兄弟を乗せた睦子さんと避難先を相談していた。校庭から先生と児童の列が出てきた。

 永沼さんは「列が裏道に進み出した時『バリバリ』という音とともに黒い水しぶきが来た」。睦子さんと兄弟を見失い、子どもたちに叫んだ。「山さ上がれ」。裏山の斜面に飛びついた。雪で滑り、波にのまれたが、押されるように斜面に上がった。3メートルほど先の水面に女の子がいた。そばの竹を左脇に抱えるようにして腕を伸ばし、手を握った。

 遼太君と和泉君は1週間後、遺体で見つかった。永沼さんは「近くにいたら、なんぼでも助けたんだけどな」。睦子さんは、見つかっていない


 ■判断

 列の後方に、5年生の男の子がいた。津波の翌日、男の子を保護した顔見知りの男性によると、男の子は震災から1カ月が過ぎたころ、当時の状況をこう明かした。

 すごい音がして、津波が前から来た。腰を抜かし、その場に座り込んだ子もいた。自分で判断して、裏山に逃げた。竹林で他の男の子2人と大人十数人と一緒になり、一晩過ごした。大人が持っていたライターで火をおこした。「眠れば死ぬんだからな」と言われ、一睡もしなかった−−。

 当時大川小にいた先生10人と事務員1人のうち、佐々木先生を含む9人が死亡し、1人は行方不明のままだ。助かったのは裏山を駆け上がった40代の男性教諭1人。この教諭は山を登る際、倒木で負傷しながら近くの男児1人を押し上げるように助けたという。

 ■その後

 なぜすぐに裏山に避難しなかったのか−−。大川小学校の惨劇への疑問は、この一点に集約される。

 石巻市は、大川小学校への津波到達を想定していなかった。市の「防災ガイド・ハザードマップ」は、同小を避難所として「利用可」としている。柏葉校長は「堤防を越える津波が来たらもたないので、山に避難場所をつくろうと職員で話はしていた。裏山は泥炭地でつるつる足が滑るので、階段をつくれるといいなと話していたが、そのまま震災になった」と明かす。

 校舎に残る三つの時計は、いずれも3時37分を指し止まっている。地震から津波到達まで、恐らく40〜50分あった。9日の保護者への説明会では、校庭で点呼を取るなどした対応に「なんですぐに逃げろって言わなかったのか」と非難の声も出た。だが一方「108人誰も欠けないように点呼し、先生はよくやってくれた。誰が悪いと思ったことはない」と話す保護者もいる。

 狩野あけみさん(42)は避難所から学校周辺に通い、今も毎日、行方不明の三姉妹の末っ子、6年生の愛さん(12)を捜す。「あの日、自転車で『行ってきます』って出かけたままで。私はずっと待ってる。もう帰ってきてもいいころだよ」 毎日新聞 2011年4月19日 東京朝刊

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◎先だって、我の日記に頷いてくれた「お仲間」ブロガーがつぶやいてくれました。子供も、大人も、年よりも何気ない生活が大事なんだよね〜と。そういう生活を次の世代にも、その次の世代にも引き継げるよう見つめ続けます。(keniti3545)