21日ー2とします 22日補修  足らずまいの差し替えです。読みづらくてすいません! 

 原発立地をめぐる利権と電源三法

田中角栄の中央への反骨から自らの中央化まで


 原発事故の発生以降、福島には電力供給を負担させられてきた東京への怨念のような感情が渦巻いている。7万人もが、未だに生活を破壊され、避難をしているのだから……。一方、東京側には、原発のある地域は経済的利益を得てきたではないか、という暗黙の反感が巣くう。沖縄の基地問題と似た根の深い問題が、そこには横たわっている。

 とはいえ、放射線被害がどこまで拡大するか予想もつかない状況に至り、電力供給と多大なリスクを「お金」で調整しようとする発想は、もはや立ち行かなくなった。

 もう一度、問い返したい。なぜ、福島県新潟県福井県などに原発は集まったのか。

 原発誘致を、やや俯瞰してみると国土開発、産業インフラ整備における中央と地方の長きにわたる桎梏に気づく。


 福島県は、戦前の猪苗代湖水力発電から、戦中には陸軍「二号研究」の原爆開発のためのウラン探鉱(石川町)、戦後復興期の只見川電源開発と「後進県からの脱出」を期して中央に協力してきた。歴代の県知事、なかでも木村守江(1964〜76年在職)は、原発誘致に奮闘した。政界、建設・通産両省、双葉海岸に広大な塩田跡地(大熊町)を所有する堤康次郎西武グループ創業者)らとの人脈を生かし、原発を招き寄せた。堤の土地とその周辺が買収され、福島第一原発は67(昭和42)年に着工されたのだった。

 都会しか知らない人は、この経緯をみて、福島県が一方的に中央に懐柔され、取り込まれてきたと思うかもしれない。だが、必ずしもそうではない。

 社会学者の開沼博は、むしろ「反中央」のエートス(ある社会集団・民俗を支配する倫理的な心的態度)があったと『「フクシマ」論』で指摘する。

 『……ここでいう「反中央」とは、当然「中央や国家をつぶしてやろう」というあり様ではない。そうではなく、中央―地方の圧倒的な力量差の中にあって、ただ無条件に服従をするのではなく、あえて自らの主導のもとで地方の側から中央に対峙する関係性をつくっていこうとするあり方だ。(中略)農村の開発が立ち遅れ、他方で三割自治といわれる地方自治の自由が限定されているなかにおいて、原子力開発だろうが他の手段であろうが、いかに地域開発を持ち込むかということこそが重要であったと言える。そのために、中央とのコネクション、利害の一致を懸命に探しながら自らの欲望を実現させていった』

 この「反中央」のエートスは、戦後の国土開発→電源開発原発誘致を貫くひとつの軸であった。全国各地で中央への「反骨」をバネに地域開発が行われた。


 そして、そのなかから、ひとりの規格外の政治家が立ち現われる。
 新潟三区から中央政界に打って出て、70年代に宰相の座にのぼりつめる田中角栄(1918〜1993)である。田中は、ふたつの側面から原発を推進させた。まず、彼の持論「日本列島改造論」の根底にある国土開発への信認によって、原発誘致のカラクリをこしらえたこと。土地への執着とカネ、土地利用の日本的弱点がそこから浮かんでくる。

 もうひとつが、首相在任中に行った資源外交だ。石油ショックに襲われた日本は、エネルギー源の多角化を国是とし、原発増設の路線が敷かれていった。
 本稿では、まず田中を通して、国土開発、土地利用と原発の関係を検証してみよう。

* * * * *

(文中敬称略)

  田中の中央への「反骨」は、1946年6月、初めて挑んだ総選挙の演説に滲んでいる。

 「みなさーんッ。この新潟と群馬の境にある三国峠を崩してしまう。そうすれば、日本海季節風は太平洋に抜けて、越後に雪は降らなくなる。みんなが大雪に苦しむことがなくなるのであります。なに、切り崩した土砂は日本海にもっていく。埋め立てて新潟と佐渡を陸続きにしてしまえばいいのであります」

 豪雪地帯の情念を背負った田中は、翌年、二度目の総選挙で当選する。その後は連戦連勝、「20代で代議士、30代で大臣、40代で幹事長、50代で総理大臣になる」と豪語し、そのとおり政界の階段を駆け上がっていく。


 田中は、まぎれもなく、地方が中央に送り込んだ「エージェント」だった。同期の中曽根康弘が保守の傍流だったのに対し、田中はいち早く同志と吉田茂自由党に合流し、本流を歩んだ。国政に参画した田中は、さらなる中央、「中央の中央」にぶつかる。占領実務をとりしきるGHQである。GHQは吉田政権を介して、間接的に日本を統治していた。

 田中は「中央の中央」に猛然と挑みかかった。31歳で建設委員会の「地方総合開発小委員会」の委員長に就任すると、2週間で4回も委員会を招集し、国土開発を進める法案の骨格を練った。土木開発やエネルギー資源のエキスパートを集めて活発な討論を導いた。議論は、焼け跡の建て直しにとどまらず、全国的な産業復興に欠かせない電源ダム開発、農村の工業化、行政区域の変更にまで及んだ。

凄まじいまでの電源への執念

 民衆の生活再建から電力源、資源へと、田中は、一気にさかのぼろうとした。その復興に突進する姿が、GHQの逆鱗に触れた。

 「緊縮財政を組むよう日本政府に命じているにもかかわらず、莫大な資金が必要な国土開発にうつつを抜かすとは反逆にも等しい」

 と、GHQの将校は激昂した。日本人は耐乏生活があたり前といわんばかりだ。
 怒りにまかせてGHQは、なんと小委員会の議事録をすべて抹消してしまった。議論自体を事実として認めず、「なかったこと」にしたのである。荒っぽい強権発動だった。

 国会で、抹消された議論の説明を求められた田中は、米国のニューディール政策の一環であるTVA(テネシー河流域開発公社)の総合開発や、ソ連のドニエプル河の流域開発を引き合いに出したうえで、こう語った。

 「河川の開発はこれを一会社で行うと、発生電力の損得のみを考え、総合的に実施しないので、熊野川とか只見川とかの高度の開発は、TVA式に特定の官庁で、国家の力でこれを行うことが絶対に必要である、との意見でありました」

 よほど悔しかったのか、田中はGHQに当てこするように河川開発は米国流に進めるべきだと滔々と述べている。田中の電源への執念は凄まじい。


 3年後、ふたたびGHQに仕切り直しのケンカを吹っかけた。

電源開発促進法」の議員立法である。

 田中は生涯に46本の法案を議員立法で提案し、33本を成立させている。自民党幹部、閣僚の立場で深く関わった法案も含めれば、田中の力で日の目をみた法律は120本を超える。なるほど官僚がすり寄るはずだ。他の政治家は、田中の足もとにも及ばない。

 しかし、議員立法のなかでも「電源開発促進法」は特別だった。火力、水力の発電施設を整備して「産業の血液」=電力の供給を増やす、この法案は、GHQに真っ向から反対された。潜在戦力の整備につながる、と反感を買ったのだ。当時、電力供給は、極めて不安定だった。停電が頻発していたが、GHQ電源開発を認めようとはしなかった。

 田中は、「公職追放するぞ」と脅かされながら、占領軍に抵抗する。吉田のバックアップで、電力開発は重工業の振興、経済成長が目的であり、再軍備とは無関係と言いきって、法案を提出した。時勢が田中に味方する。サンフランシスコ講和条約の発効で占領が終わり、52年7月、電源開発促進法は成立した。政府出資の特殊法人電源開発株式会社(Jパワー)」が設立され、大規模なダム建設にいよいよ拍車がかかる。


 このころまで、田中は地方の代理人として「中央」と格闘していた。31歳から36歳の「下積み時代」に26本もの法案を提出している事実が、それを物語っている。

 だが、佐久間ダム奥只見ダム、御母衣ダム……と発電操業が始まると、政界の雲行きは一転する。政官財が癒着した大疑獄が次々と発覚した。中央への反骨をテコに地方を開発すれば「利権」が生じ、「カネ」が動く。天下り先がつくられる。

 中央と地方が一体化した利権構造が、公共事業の裏で増殖していった。39歳で郵政大臣のポストに就いた後、田中は、自民党政調会長、大蔵大臣、自民党幹事長と要職を総なめにする。田中自身が中央化していったのだ。それにつれて、田中にとっての地方は「金の卵をうむニワトリ」に変貌する。金権と土地への執着が自らの人生と日本の政治を狂わせていく。


広大な砂丘原発用地に変わっていた

 かつて、田中が生まれた西山町に隣接する刈羽村から柏崎市の荒浜地区にかけて、広大な砂丘が続いていた。

 1965(昭和40)年12月、日韓条約の批准で大荒れに荒れた国会を乗り切った田中幹事長は、お国入りして新潟県庁で記者会見に臨むと、唐突に「自衛隊の施設大隊を地元に誘致する」と発表した。不毛の砂丘自衛隊の施設を建てて、中央からカネを引っ張る算段のようだった。

 その半年後、日刊工業新聞に田中と東京電力の木川田一隆社長が「原発をもってきてはどうか、と話をすすめている」という小さな記事が載った(『泥田の中から 田邊榮作回顧録』)。いつの間にか、砂丘は東電がほしがる原発用地に変わっていた。

 それから2カ月後の66年8月、砂丘の一部の52ヘクタールの土地の所有権が北越製紙から田中の腹心に移転される。所有権を得たのは刈羽村村長だった。村長は田中の後援会「越山会」の刈羽郡会長でもあった。

 自衛隊誘致の表明、土地の所有権の移転は、出来レースだった可能性が高い。
 田中と原子力を結びつけたのは、柏崎に拠点を置く理研ピストンリング(現リケン)の会長・松根宗一だといわれている。松根は愛媛県宇和島市出身で、日本興業銀行を経て理研に入った。理研ピストンリングの会長就任とほぼ同時に東京電力の顧問となっている。原子力産業会議の創設にもかかわっており、大政翼賛会人脈(「原子力の扉はこうして開けられた」参照)ともつながる。電力業界の総本山・電気事業連合会の副会長に選出されている。電力業界の生え抜き以外で副会長に就任したのは松根だけだ。世界のエネルギー事情に詳しい陰の実力者だった。

 『原発地震』(新潟日報社特別取材班著)によれば、田中が用地買収に動き出す3年も前に、松根は柏崎市の市長にこう呼びかけている。
 「原子力発電を柏崎で考えませんか」
 松根が振付をして、田中が演じる。そんな構図が浮かび上がってくる。


「黒い霧」問題が表面化

 砂丘地52ヘクタールの所有権は、目まぐるしく動いた。刈羽村村長が土地を入手して、ひと月もたたない66年9月に田中のファミリー企業「室町産業」に移されている。
 「土地ころがし」のパターンだ。

 田中は「越山会」や「財政調査会」など五つの政治団体を使って、表の政治献金を集めた。献金額の約半分は土建業界が負担している。公共工事の入札情報を早くつかみたい土建会社は、せっせとカネを運んだ。

 その一方で土地の転売を関連会社やダミー会社の間で行い、地価をつり上げて「差益」を稼いだ。それが「黒い霧」として表面化したのが「信濃河川敷買収問題」だった。室町産業は河川敷の広い土地も農民から安く買い取っていた。


 66年11月、衆議院予算委員会で「黒い霧」が追及される。河川敷の土地は、公共事業が完成すれば20倍に跳ね上がると野党議員につめ寄られ、田中は道義的責任をとって幹事長を辞めた。

 すると砂丘地の所有権は、奇妙に動く。疑惑の温床の室町産業からふたたび刈羽村村長に戻される。「錯誤」を理由に臭いものにふたをするように土地は村長に返されているのだ。

 その後、地元の誘致を受けた東電が柏崎刈羽原発の設計計画を発表する。
 じっと土地を抱え込んでいた村長は、71年10月、砂丘地を東京電力に売り渡した。売り値は、おおよそ「買い値の26倍」だったといわれる。世界一の規模を誇る柏崎刈羽原発の用地は、こうして東電に渡ったのである。用地売却から30年を経て、田中の「国家老」と呼ばれた本間孝一は、その売却益4億円を東京・目白の田中邸に運んだと告白している。
 「昔のことですから、今ごろどうこう言う話ではありませんよ」と……。

 田中式錬金術は政界に蔓延した。全国の原発立地で、ミニ角栄が跳梁跋扈する。


熊野灘での漁民の抵抗後、原発は浜岡へ


 原発誘致は、深く静かに進められた。福島では、最初、開発側は原発とは一言も口にせず、「井戸を掘らせてくれ」と地元に入ってきている。福井や福島では県の開発公社が用地の取得や漁業権の補償交渉の肩代わりをした。異を唱える住民は、個別撃破で切り崩される。しかし、開発側の暗躍は、かえって地元の反感をかきたてた。

 公害問題が深刻化し、環境保護が叫ばれるようになると各地で反対運動が起きた。最も激烈だったのが三重県熊野灘での漁民の抵抗だ。


 三重県は、63年に地域開発を掲げ、熊野灘の芦浜を原発候補地として中部電力に推薦した。地元では反対運動が火を噴く。中部電力の幹部が地元民の「理解」を得ようとしたが、嵐のような抗議を受ける。開発者との角逐は、66年9月、新潟で室町産業が砂丘地の所有権を握ったのと同じころ、「名倉事件」へとエスカレートした。これは、漁民が中曽根康弘らの視察を名倉港で阻止し、暴行罪に問われた事件だ。

 芦浜の混乱は収拾がつかなくなり、三重県知事は原発誘致の凍結を宣言する。中部電力は、熊野灘を諦め、静岡県の浜岡町に立地を変えて原発を建設することになる。


 諸刃の刃の私的財産権

 各地で原発誘致を止めようと、農民は土地の所有権を盾に抵抗した。漁民は漁業権の補償交渉を拒む。住民は自らの私的財産権の絶対性を主張し、原発の進出を防ごうとした。

 しかしながら、極めて皮肉なことに私的財産権を前面に押し立てた抵抗運動は、当然のことながら土地が買収され、所有権が移ってしまえば手も足も出せなくなる。開発者が所有権を手に入れたら、あとは原発を建てようが、核燃料施設を造ろうが、意のままだ。

 電力供給は公共の福祉に合致するから問題ない、との考え方はある。
 だが、過去の原発誘致において安全性や環境への影響が「公共の視点」から徹底的に議論されたのかというと大いに疑問が残る。


原発問題とは、じつは国土開発に伴う土地利用の問題なのだ。
 ところが、私的財産権の絶対性による「建築自由の原則」が日本では当然とされ、原発誘致がその地域の個別の問題として処理されてしまう。本来は、立地周辺だけでなく、広域の社会的問題だ(福島第一原発事故で、そのことを私たちは嫌というほど思い知らされる)。しかし対立の構図は現地での「賛成―反対」の「点」に押し込められ、拡がらない。
 ここに原発問題を社会的視野でとらえるうえでの弱点がある。



私権が強すぎる日本
 
科学史家の吉岡斉は『原子力の社会史』で、次のように看破している。

 「地権者・漁業権者の反対が原発立地の最大の障害となり、それさえ解決すれば事業者にとってこわいものはなくなるという事情は、日本特有のものである。(中略)そもそも欧米諸国には日本の漁業権に相当する私権がまったく存在しないか、存在したとしてもごく限定的なものとなっている。また土地についての考え方の違いのためか、地権者の居座りという反対運動の様式が成立しがたいものとなっている。

 土地・海域に関する私権が、国際的常識からみて過剰に保護され、しかもそれが売買・放棄等による莫大な私益の源泉になるという日本の特殊事情が、日本の原発立地紛争を外国人からみてわかりにくくしている。欧米の原発立地紛争の主要な争点が安全問題であるのに対し、日本ではそれ以上に金銭問題が大きな意味をもつのである」

 では、私権が強すぎる日本で、原発の進出は防ぎようがなかったのか。 東北電力が立地できなかった福島県の「浪江・小高原発」のケースに、ひとつのヒントが隠されている。反対運動のリーダーだった舛倉隆は、インタビューにこう応えている。

 「そう。共有地の大面積があるということは反対していく上で大きいから、わたしんとこだけでなくてどこでもこういう条件だったら、みんな反対するんじゃないかと思うんだよね」(『原発に子孫の命は売れない』恩田勝亘著)

 キーワードは「共有」だ。それぞれの細かな所有権に分かれた土地を共有して保持する。「地域づくり会社」のような土地利用の運営主体を設立して、皆が土地をそこに信託したら、カネにものを言わせた切り崩しは難しくなる。

 かつて日本の農山漁村では「入会(いりあい)」が機能していた。一定地域の住民が、山林、原野や海浜などを共用し、草木の採取や漁業を行って利益をあげる慣行だ。お互いさま、持ちつ持たれつの意識が根底にある。この入会の復活こそが私権の壁を突き破るのではないだろうか。そのためにはコミュニティーの存在が大前提ではあるけれど……。
 
電源三法制定、そして利権構造の中へ

 権力者はあの手、この手で原発立地を増やそうとした。
 総理大臣の椅子に座った田中は、原発を推進する法律をこしらえる。原発立地の難航に対して、 電源三法(発電用施設周辺地域整備法、電源開発促進税法、電源開発促進対策特別会計法)」 を74年6月に制定した。電源三法のしくみは、電力会社から販売電力量に応じて電源開発促進税を徴収し、それを特別会計の予算にして、さまざまな交付金補助金・委託金に使うもの。発電所の立地自治体には「電源立地促進対策交付金」という「迷惑料」が流れ込むしくみができた。

ガソリン税」を考案した田中らしい受益者から税を取り、それを開発財源とする発想だ。反中央をバネに総理の座を射止めた田中は、自ら中央化してゆく過程で中央―地方の利権構造に溶けこんだ。これは、田中だけでなく、反骨型政治家に共通する隘路である。経済成長を時代の推進源とする「近代」が宿命的に抱く二律背反というしかないだろう。

======================
======================

独自の資源外交を展開して失脚

米国の「核の傘下」から跳び出そうとした田中角栄

 日本はエネルギー資源の96.5%を輸入に頼っている。

 その99%以上が船で運ばれる。石油、天然ガス、石炭、ウランなどは、日々、何千キロにも及ぶ海路を通ってくる。資源供給国の政情や海域の治安の安定が望まれるのは言うまでもない。タンカーがひっきりなしに行き来するマラッカ海峡で紛争が起きたら、日本は窮地に陥る。

 だが、私たちは、このようなエネルギー資源の根本的問題に鈍感だ。エネルギー資源の獲得に「厳しさ」が伴うことを忘れている。それでいて、何かの事情で電力の不足が告知されると、上を下への大騒ぎとなる。 

エネルギー政策をコントロールする側からみれば、これほど御しやすい国民もいないだろう。「大停電がやってくる!」と叫べば、一斉に慌てふためく。為政者がタイミングを見計らって「持たざる国」の危うさを口にすれば、そりゃ大変だ、と民意は煽られて一方向へ靡きかねない。われながら、なんとも情けない。冷静に根本的問題とも向き合いたい。


 エネルギー資源は、政治と密接にかかわっている。
 「エネルギー白書2010」によれば、日本のエネルギー自給率は水力、地熱、太陽光、バイオマスなどを含めて、わずか4%だという。この国が真に自立するには、再生可能エネルギーの割合を高める。世界第6位の広さを誇る「領海・排他的経済水域」の海底深くに眠るメタンハイドレートなどの資源を利用する。あるいは今はまだ信じられないような話だが、「水」を燃料に変え、人工的に「光合成」を成し遂げる、といった革新的技術開発を進めねばならないだろう。

 ところが、経済産業省は、ウランを「準国産エネルギー」と位置づけ、エネルギー自給率は「原子力を含めると18%」とアナウンスしてきた。その理由は、ウランのエネルギー密度が高くて備蓄が容易であり、使用済燃料を再処理することで資源燃料として再利用できるから(=高速増殖炉プルサーマルを想定)だという。

 常識的に考えて、これは牽強付会だろう。天然ウラン産出国のカナダ、オーストラリア、カザフスタンウズベキスタン、モンゴルなどは日本の属国ではない。それに青森県の六ケ所再処理工場は93年に着工したものの完成延期18回、未だに稼動していない。当初7600億円だった建設費用が2兆1930億円に膨張しているにもかかわらず、である。

 さらに高速増殖炉は全然見通しが立たず、プルサーマル原発に溜まり続けるプルトニウムを処理できない。このように理屈が破たんしているにもかかわらず、経産省はエネルギー源の「多角化」を掲げて原子力に執着してきた。なぜ、だろうか?

 国がウランを準国産エネルギーとみなすようになったのは、石油ショックがきっかけだった。田中角栄が総理だった、あの時代にさかのぼり、核資源をめぐる国際的攻防に焦点を当ててみよう。多角化の向こうに資源を牛耳る巨大な存在が浮かび上がってくる。
* * * * *  (文中敬称略)

73年10月6日、イスラエルとエジプト、シリアの間で第4次中東戦争が勃発した。アラブ産油国は、石油価格を引き上げ、生産量を削減。イスラエルが占領地から撤退するまでイスラエルを支持する米国、オランダへの石油禁輸を決めた。

 中立の日本は、イスラエルを直接支援していなかったが、米国の同盟国とあって禁輸の危険が高まった。石油を断たれたら日本は沈没する。田中首相は、副総理の三木武夫アラブ諸国に送って説得に当たらせ、総需要抑制策を採ることになる。省エネへと舵を切る。

 一方で、エネルギー資源を多角的に確保するため、「資源外交」に拍車をかけた。
 この局面で田中は「中央への反骨」という本性に目覚めた。資源外交の世界で、中央は日本ではない。日本にとって中央とは、米国だった。

 たとえば、日本の石油会社は、戦後、GHQ参謀4部の「石油顧問団」によって系列化され、石油メジャーの下請けに組み込まれた。以来、原油供給の元栓を握るのは石油メジャーで、日本の石油会社はもっぱら精製と販売に当たってきた。「日の丸原油」と称して中東の油田を開発する日本企業もあったが、大勢には影響を及ぼさなかった。

「世界の川上」、国際資源資本に照準を絞った田中
 
そんな米国主導の体制に田中は限界を感じ、自主外交で資源獲得に乗り出す。
 「川上から攻めろ」が角栄の口癖だった。選挙は企業や団体といった川下の組織に頼るのではなく、有権者一人ひとりという川上を狙え、と弟子の小沢一郎らに説いた。エネルギー資源の確保においても、世界の川上に照準を絞った。

 そこには、多国籍化した欧米の石油メジャーやユダヤ系の国際資源資本がどっしりと構えていた。かれらは帝国主義の時代から数百年に及ぶ植民地経営を通して、資源の探査と獲得、流通をコントロールするノウハウを蓄積している。

 欧米の富の源泉を握る者たちに、田中は各国政府首脳との膝詰談判を通じてアプローチしようとした。石油については、戦後賠償の利権が絡むインドネシア北海油田を抱える英国、シベリアのチュメニ油田開発を望むソ連などに直接、掛け合った。田中の行動は、従来の秩序を重んじる米国をいたく刺激した。

  ウラン資源においても、田中は独自の獲得交渉をくり広げる。
 ここで当時の原子力産業の世界的な拡がりを整理しておきたい。

当時の「核燃料サイクル

 原子力発電を目的とするウラン燃料が流れていく回路は「核燃料サイクル」と呼ばれ、ウラン探鉱と採掘から始まる。オーストラリア、米国、カナダ、ソ連、そしてアフリカに権益を有する企業や機関が、最上流部分を握っていた。

 天然ウランは、精錬、転換を経て、燃えるウラン235を「濃縮」させる工程へ回る。この分野は米国の独占状態だった。そこに西独、フランスが殴り込みをかける。日本は、濃縮を全面的に米国に依存。「核不拡散」の観点からその管理下に置かれていた。世界中で買い付けたウランはテネシー州オークリッジの濃縮工場などに輸送される。濃縮後、日本に持ち込まれて原子炉に装填する燃料棒に加工され、原子炉で燃やされる。

 原子炉メーカーでは、米ゼネラル・エレクトリック(GE)と東芝・日立のグループ、米ウエスチングハウス(WH)と三菱の系列、フラマトム(仏)、KWU(西独)、AECL(カナダ)などが覇を競っていた。

 炉で燃やされた使用済み燃料は「再処理」されて、プルトニウムが取り出され、回収ウランと混ぜてMOX燃料となる。再処理も核開発への転用が可能なので、ラ・アーグ(仏)、ウィンズケール(英)、ハンスフォード(米)などの施設に限定されていた。

 MOX燃料は、高速増殖炉で燃やす。ふたたび軽水炉に戻して使えば、プルサーマルと呼ばれる。使い物にならない放射性廃棄物は数十年間冷却のために貯蔵された後、地下深く埋設処分される、というのが核燃料サイクルの基本的な筋書きだ。

 下図は、拙著『田中角栄 封じられた資源戦略』に掲載した「核燃料サイクルと70年代の原子力産業」である。この図を見れば、核燃料開発の川上にどのような勢力が根を張っていたか想像できよう。パリのロスチャイルド家とニューヨークに拠点を置くロックフェラー財閥が東西の横綱といえるだろうか。
 田中が挑んだ「中央」には、こういう巨大な集団が蟠踞していたのである。
 
石油危機が到来する直前の73年9月末、田中は2週間に及ぶ欧州歴訪に旅立った。最初の訪問国、フランスの大統領、ジョルジュ・ポンピドゥはロスチャイルド銀行の頭取を経て、政界に入っている。ロスチャイルド家の当主、ギー・ド・ロスチャイルドの親友だった。

 田中は、まずポンピドゥの忠実な代理人、ピエール・メスメル首相と対面した。両者は、アフリカのニジェールでのウラン共同探鉱のレベルを上げ、開発を急ごうと意気投合する。

 気を良くしたメスメルは、デリケートな「濃縮」の共同開発への参加を求めてきた。フランスは、西独が英国、オランダと立ち上げた濃縮の研究開発企業「ウレンコ」に対抗し、スペイン、イタリア、ベルギーとの濃縮共同会社「ユーロディフ」の創設を決めていた。

米国の「核の傘」の外へ跳ぶべきか、否か…

 フランスの核戦略の基本は「第三の極」だ。米国にもソ連にも与せず、超大国の核支配と対峙する。前年には南アフリカユダヤ系の資源企業が「秘密クラブ」をつくり、ウランの価格カルテルを結んでいた。その輪のなかに日本も入れ、と誘いかけてきたのだった。

 フランスとのパイプ役は、通産事務次官を退官したばかりの両角良彦と目された。両角は、50年代に在フランス日本大使館の一等書記官を務め、フランス流の官民協調の混合経済を実地で学んだ。資源エネルギー庁の生みの親で、「資源派の首領」であった。

 しかし、さすがの田中もウラン濃縮への直接参加はためらった。
 「ご提案はありがたいが、7月の日米首脳会談で、ウラン濃縮の第四工場を日米合弁でやろうと確認したところです。日米には同盟関係もあり、すぐには応じられない」

「それなら、われわれの工場で加工する濃縮ウランを購入していただけませんか」
 と、メスメルは濃縮ウランを売り込んできた。ユーロディフの成否は、日本がまとまった濃縮ウランを買うかどうかにかかっていた。

 資源外交の山場は、いきなりやってきた。田中は、米国の「核の傘」の外へ跳ぶべきか、否か、考えた。ウラン濃縮は米国に任せ切ってきた。どうするか……田中は……傘の外へ、跳んだ。

 「日本の原子力発電は急増します。ウラン資源が不足する怖れがある。わかりました。ウランの濃縮加工を発注しましょう」

 随行した財界人たちは「おおッ」と声をあげそうになった。田中は事前のシナリオより数段踏み込んだ発言をしたのだ。

国益の擁護者、キッシンジャーの登場

 偶然にも、田中とメスメルの会談の日、ワシントンではヘンリー・キッシンジャーが新しい国務長官として国務省に初登庁した。それまでの国家安全保障担当の大統領補佐官という隠密役から、晴れて外交の主役に抜擢されたのである。


 キッシンジャーは、ハーバード大学で教鞭をとっていたころからロックフェラー一族の経済的支援を受けてきた。大統領の椅子を狙ったネルソン・ロックフェラーの参謀役も務めた。キッシンジャーの二度目の結婚相手は、ニューヨークのマンハッタン五丁目にあったネルソン事務所の研究員だ。当時ロックフェラー財閥は、石油のエクソン、原子炉メーカーのウェスチングハウスなどを抱え、エネルギー産業界に莫大な利権を保持していた。 

キッシンジャーはロックフェラーに代表される米国益の擁護者であり、同時にユダヤ人脈で欧州の情報も把握していた。田中が米国の核の傘の外へ跳んだ日に、このような人物が米国外交のひのき舞台に立ったことは、あまりに皮肉な巡り合わせだった。

 日本の外務省は、田中とメスメルの会談内容をつまびらかにはしなかった。最低限の情報しか流していない。しかし、メディアもことの重大さを報じた。

 「日本がフランスに濃縮ウランの委託加工を依存することは、米国の『核支配』をくつがえすことをねらったフランスの原子力政策を一段と推進するばかりか、米国の核燃料独占供給体制の一角が崩れることを意味し、世界的に与える影響は極めて大きい」(朝日新聞73年9月28日)

記者団との懇談で出た爆弾発言

 続いて田中はポンピドゥと会談し、中部アフリカのガボンでの鉄鉱石と森林資源の共同開発で合意する。ガボンには、ロスチャイルド家が買収したウラン鉱山があった。日本側はガボン内陸部からギニア湾に鉄道を敷くプロジェクトを提案する。ポンピドゥは、ダ・ビンチの名画「モナリザ」を日本に貸しだすと応じた。

 田中は英国を経由して西独に入った。この間、田中はウラン濃縮の話に触れようとしなかった。外務省がワシントンを刺激してくれるな、とすがりついたようだ。
 だが、西独のブラント首相との会談で目ぼしい成果を得られなかった田中は、同行記者団との懇談で、爆弾発言をする。

 「メスメル首相と、80年から年間1000SWUトンの濃縮ウランを輸入すると約束した」と、パリ会談の内容をぶちまけたのだった。濃縮委託量は、米国分に比べればはるかに少なかったが、堤を崩す一穴とも映った。

 東京では東電の木川田隆一会長が「まったく聞いていない」と憮然として取材記者に言った。電力業界が米国に気兼ねしてフランスの濃縮ウランの引き取りに難色を示すと、田中は「政府が備蓄をして、いざというときに放出すればいい」と言ってのけた。

 石油ショックは庶民の生活を直撃した。買いだめや売り惜しみが横行する11月14日、キッシンジャー国務長官が来日した。キッシンジャーは、イスラエルが不利にならぬよう先進消費国を団結させるのに懸命だった。その動きは「石油消費国会議」をへて 国際エネルギー機関(IEA)」の創設 へとつながっていく。

 キッシンジャーは田中に単刀直入に言った。
 「われわれは中東紛争の解決に全力を傾けている。中東和平は進んでいる。日本も政策変更などしないで、静観してほしい」

 田中は日本の苦境を伝え、逆に訊ね返した。
 「仮に日本がアメリカと同じような姿勢を続け、アラブから禁輸措置を受けたら、アメリカは日本に石油を回してくれるのか」
 「それはできない」とキッシンジャーは突っぱねる。

 「事態の進むままに任せるのでは、国民の理解は得られない。何も手を打たなければ、日本が窒息死する。何らかの形でアラブの大義に共感表す必要がある。日本は独自の外交方針をとるしかない」

 話は物別れに終わり、田中は、その後も石油とウランを求めて、東南アジア、豪州、ブラジル、カナダと飛び回った。だが……、田中は金脈問題で失脚し、ロッキード事件での刑事告発へと追い込まれていく。

 田中は回想録で、こう語っている。

 「世界の核燃料体制は、やはり、アメリカが支配しているんだな。わたしはそのアメリカを逆なでして、何かをやりたいわけじゃない。(中略)しかし、あんなにアメリカがキャンキャンいうとは思わなかったなぁ。わたしとしては一生懸命になって話をまとめようとしたし、フランスも日本と一緒にやろうということで、前向きになっていた。そこを後ろからいきなりドーンとやられたようなものだ」 (『早坂茂三の「田中角栄」回想録』)

 もう一度、「核燃料サイクルと70年代の原子力産業」の図をご覧いただきたい。その後、組織と組織の合従連衡は進んだ。フラマトムはシーメンス系の原子力部門を買収し、フランス原子力庁の核燃料系子会社のコジェマと共同持株会社を設立してアレバが生まれている。日本の東芝が三菱と組んでいたウェスチングハウスを買収して世界を驚かせたのは記憶に新しい。米国の商業用原子炉向けのウラン濃縮役務は、USEC社(United States Enrichment Corporation)に集中している。

 だが、現在も大きな構図は変わっておらず、最上流のウラン鉱はリオ・ティントBHPビリトン、アングロ・アメリカンなどの国際資源資本が押さえている。

 本物の情報に疎い「天下りや横滑り」経営者

 では、日本はどうか。商社や電力会社が資源確保に躍起となっているが、通商外交力の弱さは十年一日の如し。グルノーブル大学で構造地質学と石油地質学の博士号をとり、中東、アフリカ、欧米諸国の資源開発に携わった後、米国で石油会社を経営した藤原肇は、石油ショックを半年以上前に予告した記念碑的著作『石油危機と日本の運命』で、日本の資源開発の弱点を組織と機能の面から次のように記している。


 「問題なのは、……(国際情勢の複雑さや外交感覚とは関係なく)日本の内部事情だけによって、石油事業の上に立つ人びとの顔ぶれが決まってしまうという点である。いってみれば大蔵省や通産省出身のお役人や銀行や精油所、あるいは電力会社出身の経営陣が、石油事業における首脳部を構成してしまっている。(彼らの役目が)政府や財界をくどきおとして、補助金や支援の約束をせしめてくる目的であることは、誰の目にも明らかである」

 「石油事業」は資源開発事業全般に敷衍できる。天下りや横滑りの経営者は、世界相手の資源開発で遅れをとる。ソロバン勘定と根回しでは資源は獲れない。本物の情報に疎いのだ。藤原は地質学のスペシャリティを強調する。

 「(欧米の資源会社では)有効なデータを作るために、地球物理学や特殊な地質分野のスペシャリストたちが協力して作業をしている。このように、確実に石油資源を発見する目的のために、組織全体が知識と技術を最高限度に動員できる体制を形成しているのが、石油会社の中枢部である開発部門。(中略)知識と技術という情報を媒体にしながら、『モノ』としてのエネルギー源を社会にもたらすための企業活動であるといえるだろう」

 航空写真の解析では世界で何本かの指に入ると言われた藤原らしい見方だ。

 思えば、資源外交に突進する田中の周りには官僚や財界人しかいなかった。その状況は、野田政権でも変わっていない。違う点は、米国との距離が極めて近くなったことだろうか。

 ============ 完