「71才の365日」3月21日(水)晴れ−1℃「東日本大震災」377日

*朝トレ:8時〜9時 風が冷たい、黙々B級メニューこなして、帰路アバウトな前頭葉に今日の予定を流したが一件増えていた。昨日はお役所もお休みでしたので、線量計の貸し出しも受けられず。よって、線量の定点測定が今日に順延でした。

 もう一点の予定はお袋、冬着の片付け・春物補充のタンス整理。此処の季節は全てが遅れがち、本格的春物はいつも春一番が吹き抜ける頃と決めているのだが、女房殿が心配した通り今年は遅い、いや、春分の日を過ぎると「春一番」とは呼ばないのだとかも?? これも、今日に決めていた。

 今朝は朝から強い風だ!! いや、ご先祖様お彼岸のお迎えも一番に済ませておりますし、今日の風も此方から催促して吹いてもらったようなものですよ! そう、明日は、我れの妹も婿殿と長男を連れてお墓参りに来るそうですよ「親父殿」! 久し振りにみんなの顔も見てやって下さい。

*お袋にお墓参りの報告、「タンスもすっきり」「身繕いもすっきり」今日は午後消防署の立ち入り検査のある日とかで、午前中のお茶だけにしました。お袋は、せがればかりでなく嫁の世話も焼きたいらしく盛んにブラウスなどを差し出して進めます。一度受け取らないと気が済まないので難しいんです。

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*昨日祝日は、お役所お休み線量計今日お借りして定点測定をした。

お役所に(日光市環境課)いくつか質問しました。 (以後注視の要有りと思われる) 


1、市内の林間学園には園庭の除染作業を行ったところもあるが、日光市の概要を教えて下さい。

773箇所・38校:?良く聞くとホットスポットとおぼしき箇所の測定と局所の汚泥除去(1平米もない範囲)。これは測定をした段階としか言えない。

2、国の指針に則って3月中に計画の策定。市民に公示は? します。


3、環境課で把握している、日光市内で 一番高い放射線を測定した場所とその値は? 市のホームページに乗っている線量マップにあります。我れが見る限りでは0.2〜0.4未満です。測定位置が、国指導は地表から1メートル・学校幼児立ち入り場所は50センチメートル。

因みに我れ個人で市の貸し出し線量計での測定では、1回/週 毎週平均値0.2 以上 max0.4μSv以上 これまでの最大値は[0.6μSv] (これまでに複数回あり) 「* 但し地表2センチメートルのデータです」 幼稚園や、学校の「運動場」地上0.5メートル、1メートルの線量計ってどうするんでしょう?子供達は地べたを転げ回って遊ぶんですよ!!

4、除染計画策定には住民も参加しているんでしょうか? よく解りません。

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本日の測定結果

◎.全てのデータ (原則)地表2cmの測定とする1点6回の測定:高順位値2点の記録

東:自宅外(から)距離 30m 堤防上

北:自宅外(裏)空き地、雑草有り、西北に防風林有り、

南:自宅敷地内ベランダ(ブロック塀あり)

西:自宅敷地内雨樋

M:細尾町モデルセンター庭

  

(3月13日)前週の測定 積雪あり

東:0.16 0.14μSv/h 西:0.21 0.19μSv/h 南:0.19 0.18μSv/h 北:0.21 0.16μSv/h 

M:0.18 0.16μSv/h

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↓ (2012.3.21) (雪なし:枯れ芝上に計測器)

3月21日 本日の測定13時30分〜14時30分

東:0.36 0.28μSv/h 西:0.27 0.23μSv/h 南:0.26 0.21μSv/h 北:0.27 0.27μSv/h 

M:0.28 0.25μSv/h



◎高値スポット今回は、 堰堤上・裏庭空き地 ともうに枯れ芝の上強風

◎各ポイント5点各々平均値の、『平均値』は 0.22μSv/h 前回より高値。は、雪解け枯れ芝?

*雪解けには、下の地肌は以前の高値に戻る(若しくは更に高値が出現する恐れ有りと思います)予測が当たっているようだ。(悪い結果へ繋がるかも?)
 ◎雪解けに「春一番」、足尾峠、いろは坂からの吹き下ろしに清滝小学校の校庭は?心配変わらず (この文章次回まで残そう)


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*「東日本大震災」377日

今日の一題 

原発の導入から今日まで:歪んだ歴史のおさらいです」!!  (少々長く成りますがまだの人は時間のあるときに通読して下さい)


原子力の扉はこうして開けられた

敗戦から「原子力予算案」の成立まで


山岡 淳一郎  

日経ビジネス2011年9月21日〜10月12日3部シリーズ」(全)

 世論調査では、国民の約八割が「原発依存からの脱却」を求めている。
 だが、その道筋はかすむばかりだ。経済産業省では原発擁護派と、電力自由化・見直し派のバトルが続いている。枝野幸男経産大臣の就任で、見直し派が勢いづいたともいわれるが、電力界の「官産複合体」の抵抗は激しく、予断を許さない。

 
 原発問題は、社会、経済、技術的問題であると同時に「権力構造」の問題でもある。原発を推進してきた権力の枠組みを抜きにして「フクシマ」は語れない。

 原発は、何処からきて、何処へいこうとしているのか。誤解を恐れずに言えば、「軍事力増強ー国家主義への憧憬」と「経済成長−エネルギー産業振興、国土開発」という二つの欲望をエネルギー源に計画経済的な統制手法で原発は造られてきた。一直線の右肩上がりの成長を象徴する「昭和モデル」だった。

 それが爆発事故で砕け散り、甚大な被害をもたらしている。
 戦後、日本の占領主だった米国は、ソ連の国力伸長を警戒し、日本に「反共の防波堤」としての役を与えた。再軍備と経済発展を日本に求め、二つの欲望を大いにくすぐった。米ゼネラル・エレクトリック(GE)や米ウエスチングハウス(WH)の軽水炉を次々と売りつけ、ウラン濃縮を一手に引き受ける。日本の保守政党の政治家は、それに見事に応えた。米国政府に取り入り、ときに圧力を利用して権力闘争を展開。米国を支点に権力の振り子は揺れ続けてきた。

 原発依存からの脱却とは、このような昭和モデルからの脱却でもある。はたして「次」の権力構造は国民の共同意識に像として結ばれているのだろうか。

 原発と権力の関係をもう一度、ふり返り、将来の選択への共通のプラットフォームを確認しておきたい。原発をめぐる権力の枠組みは、その時々の政治家を歴史の舞台にすえてみると浮かびあがってくる。

(文中敬称略)

* * * * *

 多くの識者が、「政・官・財・学・メディア」のペンタゴン(五角形)体制が原発を推進してきたと言う。福島第一原子力発電所の事故が起きるまでは確かにそうだった。が、最初からペンタゴンが存在していたわけではない。


「ハード・ピース」から「反共の防波堤」へ

 日本は、1945年9月、太平洋戦争の敗北で米国を主体とする連合国軍の占領下に入った。「二度と軍国化させてはならない」という占領方針により、原子力や航空技術の研究開発は全面的に禁じられる。原子力研究は手足を縛られた。

 そこから、どのようにして原子力利用の扉が開かれたのか。まずは政治状況を俯瞰しておこう。連合国軍の占領は講和条約が発効する52年4月まで続くが、この間、権力ピラミッドの頂点にはGHQ連合国軍最高司令官総司令部)が君臨した。

 マッカーサー元帥率いるGHQは、民主化をキーワードに憲法改正極東国際軍事裁判財閥解体、農地改革などを断行する。当初、米国政府は、民主化を優先して軍国の根を断ち、国力を最低水準に抑えて日本を農業国家とする「ハード・ピース(厳格な平和)」を志向した。


だが、ソ連の国力増強で、方針を「逆コース」へと転換する。米国は、ハード・ピース路線を捨て、ソ連の封じ込めを狙って日本を「反共の防波堤」にしようと決断。「アジアの工場」としての経済発展と再軍備を求めるようになった。冷戦構造が固定されていく。

 外交官出身の吉田茂(1878〜1967)首相は、日米関係を基軸にしながらも、表面的には再軍備要求に反抗し、日本を経済国家として復興させる路線を敷いた。吉田は、実業家で側近の白洲次郎(1902〜85)を対米交渉の切札に使い、経済復興への道を模索する。白洲はときにGHQと激しくやりあった。

 こうして占領政策が揺れ動くなか、原子力利用の人的ネットワークは、ひっそりとつながっていくのである。

 1948年12月24日、クリスマスイブ――この日、GHQは「逆コース」への転換をあからさまに行動で示した。前日に東条英機ら7人の戦犯を処刑したのとひきかえに、A級戦犯容疑者だった岸信介(1896〜1987)たちを釈放したのだ。岸は、戦中に商工大臣、軍需次官などに就き、経済統制を仕切った。上海で戦略物資を海軍に納めて大儲けをした児玉誉士夫らも解き放たれた。GHQは、協力的な元官僚や軍人、右翼を反共の「情報源」に利用したといわれる。

 近年、米国の史料公開が進み、岸や児玉がCIA(米中央情報局)と近い存在だったことが明らかになってきた。2006年7月、米国務省はCIAの日本政界要人への工作を公式声明で発表している。

「米中央情報局(CIA)が一九五〇年代から六〇年代半ばにかけ、日本の左派勢力を弱体化させ保守政権の安定化を図るために、当時の岸信介池田勇人両政権下の自民党有力者に対し秘密資金工作を実施、旧社会党の分裂を狙って五九年以降、同党右派を財政支援し、旧民主党結成を促していたことが十八日、分かった」(毎日新聞2006年7月19日夕刊)

 岸、児玉らの釈放は、日本の戦後体制を決定づけたといっても過言ではない。
 原子力利用の発端も、この「逆コース」と密接に関係している。


原発の情報をもたらした「大政翼賛会」の顔

 戦後、最も早い段階で米国発の原子力発電に関わる情報を電力界にもたらしたのは、岸らと一緒にA級戦犯容疑を解かれた大臣経験者、後藤文夫(1884〜1980)だった。

 後藤は、戦中に国民の戦時体制への動員を押し進めた「大政翼賛会」の顔だ。翼賛会は、国家国防体制の政治的中心組織で、ナチスに倣った「衆議統裁(衆議はつくすが最終決定は総裁が行う)」方式で運営された。翼賛会は町内会や隣組を包含し、さまざまな国策協力運動を展開している。

 後藤自身は軍部の台頭に抵抗し、日米開戦を避けようとしたともいわれるが、翼賛会の副総裁、東条内閣では国務大臣を務めた。戦時体制のリーダーだった事実は動かせない。

 釈放され、3年ぶりにシャバの空気を吸った後藤は、元秘書官の橋本清之助と再会し、収監中に英字紙で仕入れた知識を披露した。橋本は、のちに「原子力産業会議(原子力産業協会の前身)」の代表常任理事に就任し、電力業界を束ねていくことになる。後藤との会話を、こうふり返っている。

「私が原子力のことをはじめて知ったのは、二十三年十二月二十四日、後藤文夫先生が岸信介氏などといっしょに、巣鴨プリズンから出てきたその日の夕方のことだ。スガモの中で向こうの新聞を読んでいたら、あっちでは、原爆を使って電力にかえる研究をしているそうですよ、というちょっとした立話が、最初のヒントでした」(『日本の原子力 15年のあゆみ』)

 核分裂エネルギーを爆発ではなく、その熱を使って水を沸騰させ、蒸気でタービンを回して発電するのが原発の原理である。


 後藤から原子力情報を仕入れた橋本は、旧翼賛会の左派、マスコミ人脈を使って産業界に足がかりをつくろうと策動を始める。

 後藤は、かつて「天皇の警察官」を自認する内務官僚だった。情報には強い。巣鴨プリズンでは英語文献を読みまくったという。革新官寮から元秘書を通して民間に原子力の情報が流れ、「官産複合体」への水脈がつながってくる。

 ただし、岸も後藤も釈放されたとはいえ、公職から追放された。

 政権を握る吉田は、岸の牙城であった商工省の大改革に着手する。懐刀の白洲次郎を、商工省の外局の、汚職はびこる貿易庁へ長官として送り込んだのだ。


白州次郎通産省設立と電力事業の再編

 海外経験豊かな白洲は、常々「日本を貿易立国に変えよう」と唱えていた。従来の国内産業育成を主眼とする商工省を潰し、「貿易省」に改組しようと考えた。輸出産業を伸ばして外貨を獲得し、その外貨で資源を買って経済成長を加速させる。白洲の改組構想は商工官僚の反発を食らったが、若手の抜擢などで乗り切った。

 49年5月、「通商産業省経産省の前身)」が発足する。「日本株式会社」の司令塔の誕生である。貿易を通商と言い換えてはいるが、白洲の執念がこもった新省の設立であった。

 以後、通産省の内部には吉田―白洲―牛場信彦らの「外交・通商派」と、岸―椎名悦三郎―美濃部洋次らの「産業・統制派」、さらには「資源派」「国内派」などの派閥が生まれ、その対立抗争は現在まで尾を引く。こんにちの経産省内での原発擁護派、見直し派の衝突にも、その攻防史が影を落としている。

 白洲は、通産省の設立と並行して、電力事業の再編に取り組んだ。戦時国家体制で、電力会社は特殊会社の「日本発送電」と9つの配電会社に統合されていた。戦争が終わり、供給抑制が外されると電力需要は急拡大した。物資不足や空襲による発電施設の破壊、設備の劣化もあって供給が追いつかない。緊急制限による停電が頻発し、治安問題も生じた。

 日本発送電は、只見川や飛騨川、江の川などにダム式水力発電所の新規計画を立て、供給不足の解消に乗りだそうとした。その矢先、独占企業の整理を目的とする過度経済集中排除法の指定を受ける。


日本発送電を解体し官から民へ

 GHQは、日本発送電と9配電会社に再編成計画を提出するよう命令した。日本発送電は通産省の管轄である。白洲は吉田と相談して、電力業界の重鎮、松永安左衛門を電力再編の審議会委員長にすえ、日本発送電の解体に挑んだ。

 松永は、軍閥に従う官僚たちを「人間のクズ」と放言し、新聞に謝罪広告を載せる事態に追い込まれたことがある(1937年)。軍人嫌い、官僚嫌いは筋金入りだ。松永は、すでに70代半ばだったが、気力旺盛。一貫して電力事業への国家の不必要な介入に反対した。GHQに直談判し、1951年、国会決議よりも効力が強いGHQポツダム政令を公布させる。日本発送電は地域ごとの9電力会社に分割・民営化され、事業再編が成った。

 電力事業は、官から民へと軸足を大きく移して再出発した。

 しかしながら、許認可権を握る通産官僚は、瞬く間に巻き返す。翌年には特殊法人電源開発を発足させて発電事業に参入。環境がどんなに変わろうが、官は生きのびる。


 いち早く原子力情報をつかんだ橋本清之助は、電力事業再編を巧みに利用した。日本発送電が解体され、最後の総裁だった小坂順造信越化学、長野電鉄などの創業者)が財団法人電力経済研究所を創設すると、橋本は常務理事に納まった。すぐに「原子力平和利用調査会」を立ち上げ、後藤文夫を顧問に迎える。電力経済研究所は、数年後に原子力産業会議へと姿を変えていく。

 かくして戦中の国家総動員体制の実践者たちが原子力ネットワークの要所を押さえ、官産複合体の芽が吹いたのだった。

 一方、原子力開発を実際に担う科学者たちは、じっとして動かない。いや、動けなかった。原子力や航空機の研究は禁じられ、手も足も出せない。情報は入っても身動きがとれない状態だった。


原子力利用に慎重だった科学者

 世界の原子力利用は、米国が原子爆弾開発の「マンハッタンプロジェクト」で先導した。米国はナチス・ドイツからの亡命研究者を集めて急ピッチで開発を進めた。

 日本も戦中に原爆研究に手をつけている。陸軍は、理化学研究所仁科芳雄のグループに研究を依頼。そのプロジェクトには仁科の頭文字から「ニ号研究」の暗号名がふられ、福島県石川町や朝鮮半島、東南アジアでウラン鉱石探しが行われた。仁科グループは、ウラン235を熱拡散法で「濃縮」すれば原爆を製造できると結論づけたが、実現にはほど遠かった。海軍は、艦政本部が京都帝大の荒勝文策教授に原爆研究を頼み、プロジェクトは「F研究(分裂=Fission)」と呼ばれたものの陸軍よりも成果は少なく、敗戦を迎えている。

 その間に米国は、原爆を完成させ、ウラン型を広島へ、プルトニウム型を長崎に投下。20万人以上の人命が奪われる。被爆国の日本には原子力に対する強い拒絶感があった。

 日本では核分裂エネルギーを兵器に使えば「核」と呼び、平和利用なら「原子力」と言い換える。だが、両者はいわばコインの裏表であり、原子力発電のためのウラン濃縮や使用済み燃料の再処理によるプルトニウム抽出の技術は、そのまま核兵器開発に転用できる。強烈な放射能の危険性は軍事であれ、発電であれ、常につきまとう。核と原子力は同根だ。

 占領下、科学者たちは慎重にふるまった。
 だが、日本経済をけん引する通産省が動き出し、電力産業界でも原子力への関心が高まってくる。学者は慎重だとはいえ、研究を禁じられて「知的飢餓感」が昂じている。誰かが触媒になれば原子力利用に向けての化学反応が進むかもしれない。


原子力カードを握って登場した中曽根康弘

「官・産・学」に横串を貫けるのは「政」だ。この局面で、海軍主計大尉で終戦を迎え、内務官僚から政治家に転じた中曽根康弘(1918〜)が、原子力カードを握って躍り出た。

 朝鮮戦争が勃発して冷戦が熱戦に転じ、GHQは日本の統治どころではなくなった。講和条約締結による日本独立が射程に入ってくると、米国政府は再軍備化を突きつけてきた。

 中曽根は、この流れに乗った。51年1月、対日講和交渉で来日したダレス大使に「建白書」を差し出す。その文書で自衛軍の編成、再武装で足りない分の米国からの援助、最新鋭兵器の補給貸与、旧軍人の追放解除などを訴える。


 そして「原子科学を含めて科学研究の自由(原子力研究の解禁)と民間航空の復活を日本に許されたいこと」とつけ加えた。翌52年4月、講和発効で原子力研究は解禁された。学界では、しかしイデオロギー的対立もあって議論が紛糾する。

 中曽根は、学者たちの対立を横目に、53年7月、米国へ渡る。ヘンリー・キッシンジャー助教授(のちの米国務長官)が主宰するハーバード大学の夏季セミナーに通い、11月まで米軍関連施設を視察して回った。小型の核兵器開発に興味を持っていたと伝えられる。帰途、カリフォルニアのバークレー放射線研究所を見学し、原子力研究の推進体制を学んだ。中曽根は自著にこう記す。

「左翼系の学者に牛耳られた学術会議に任せておいたのでは、小田原評定を繰り返すだけで、二、三年の空費は必至である。予算と法律をもって、政治の責任で打開すべき時が来ていると確信した」(『政治と人生』)


原子力予算案』の成立

 中曽根の帰国に合わせたかのように、53年12月8日、アイゼンハワー米大統領は国連総会で「アトムズ・フォー・ピース(原子力の平和利用)」の演説を行った。アイゼンハワーは、核軍縮を唱え、原子力の平和利用のために国際原子力機関IAEA)をつくろうと世界に呼びかける。米国人には忘れられない「真珠湾攻撃記念日」に行われた演説は、米国の核政策の大転換を告げるものだった。従来の独占、秘密主義から原子力貿易の解禁、民間企業への門戸開放へと切り替えたのだ。

 この演説の直後、中曽根は岸と四谷の料亭で会い、国家主義的な方向性を確認し合っている。翌54年3月、中曽根は、改進党の同僚議員と国会に「原子力予算案」をいきなり提出。予算案は、成立した。学界は「寝耳に水」と驚き、上を下への大騒ぎとなった。 

 吉田政権の命脈はつきかけていた。政治の軸は、軽武装の経済復興優先から、改憲再軍備による民族国家の立て直しへと移った。冷戦の激化と日米関係の変化、独立後の政権の弱体化、リベラリズムからナショナリズムへ。そうした潮目の変化は、原子力利用という具体的な案件に凝縮されている。見方を変えれば、原子力ナショナリストが支配体制を再構築するには格好のツールだったともいえるだろう。

 それにしても……私は、拙著『原発と権力 戦後から辿る支配者の系譜』を執筆する過程でさまざまな資料に当たったが、中曽根たちの原子力予算案の提案趣旨説明には正直なところ、魂げた。改進党の小山倉之助は堂々と語っている。

「……MSA(米国の対外援助統括本部)の援助に対して、米国の旧式な兵器を貸与されることを避けるためにも、新兵器や、現在製造の過程にある原子兵器をも理解し、またこれを使用する能力を持つことが先決問題であると思うのであります」


 提案者が、原子炉建設予算の説明で、原子兵器を使う能力を持つために上程すると言い切っている。「軍事力増強−国家主義への憧憬」が、原子力の扉を押しあけた事実を私たちは胸に刻んでおく必要があるだろう。ここから原発の建設は始まったのである。


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原子力の父」の称号を背に狙った総理の座


正力松太郎の大キャンペーンから政界引退まで
(山岡 淳一郎 バックナンバー2011年9月28日)


 権力者にとって原発が魅力的なのは、導入すれば「経済成長」と「軍事力増強」の二兎が得られると映るからだろう。原発を造れば、大量の電力供給が可能になり、「豊かな生活」への「夢」が膨らむ。核兵器開発に必要な技術にも手が届く。

 実際には技術的制御が難しく、放射線の危険がつきまとう。使用済み核燃料の処理方法は確立されておらず、莫大な設備投資が必要だ。原子炉の寿命が尽きたあとの廃炉まで含めれば、ライフサイクル・コストは高くつく。事故が起きれば、経済的前提は吹きとぶ。

それにもかかわらず、日本だけでなく、米国やフランスはじめ世界中で原発政策が推し進められてきたのは、核分裂エネルギーの途方もないパワーが権力者の欲望を刺激し、決定的な事故が起きるまでは「夢」が語り続けられるからだ。


原発って、マッチョイズムなんですね」
 と、当連載の担当女性デスクに指摘され、ああそうだったのか、と改めて気づかされた。私自身、力への憧れがないといえば、嘘になる。力への信仰が原発にはへばりついている。逆にいえば、力がなければ不安だから、原発にしがみつく。不安は焦りをよぶ。

 戦後復興から成長期の「昭和モデル」は明日は今日より必ずよくなるという希望と、過去の悪夢(敗戦)から逃れたい焦りが結びついて、生み落とされた。だから戦中世代は後ろを見ず、直線的に突き進んだ。欲望を全肯定するパワーで高度成長という階段を駆け上った。そんながむしゃらな先人の成功がなければ、いま、ここの私も、ない。単に誰かを断罪するのではなく、フクシマの痛みの根を知るために歴史をひもといてみたい


日本の原発導入、つまり「昭和モデル」の立ち上げで決定的な役割を果たした人物がいる元警視庁警務部長にして読売新聞社主、正力松太郎(1885〜1969)である。彼にとって、原子力は宰相の座を射止めるための武器でもあった。正力が仕掛けた戦略とは、どのようなものだったのだろうか。    

(文中敬称略)

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 1954(昭和29)年3月、原子力予算が成立した。学界は原子力研究の準備が整っておらず、混乱をきたしたが、政官主導で原子力利用の扉が開いた。


第五福竜丸』 と反核運動の高まり

 と、その矢先、衝撃的なニュースが世界を駆けめぐった。国会で原子力予算案が浮上する前日の3月1日未明、ビキニ環礁から160キロ離れた海上でマグロ漁をしていた「第五福竜丸」は、大量の「死の灰」を浴びて被曝した。23人乗りの漁船が母港の焼津港に帰ったのは14日。船員の「太陽が西から昇ったような火の玉を見た」という証言をもとに、16日、読売新聞は米国が極秘裏に行った水爆実験を世界に先がけて報じた。

 被曝した漁船員の頭髪は抜け、赤血球が著しく減った。全員が東大病院と国立第一病院に入院する。無線長の久保山愛吉は半年後に「原水爆の犠牲者は、わたしを最後にしてほしい」と言い残して亡くなった。原子力はビキニの名とともに再び現実の恐怖に変わった。

 この状況で、米国のダレス国務長官は「日本人は原子力アレルギーにかかっている」と突き放した。さらに被曝した船員たちを「スパイだ」とも口走る。


 日本人は怒った。反核、反原水爆ののろしが、東京で上がった。杉並区の婦人が始めた原水爆禁止署名運動は、瞬く間に全国に波及する。運動は反核から反米へと大きなうねりをつくり、署名数は3000万人に及んだ。反米世論は、燎原の炎のように拡がっていった。

 政官財の親米派は、運動にソ連共産党の平和攻勢による革命戦略の匂いを嗅ぎ取り、日米関係の破綻を怖れた。ワシントン政府も日米関係を修復しなくては、原水禁運動に乗じて革命が起きると憂えた。反核、反米の運動を放置したら「反共の防波堤」が崩壊する。そこから先は、民衆の憤怒をどう抑えるか、いわゆる「情報戦」にかかっていた。

 正力松太郎が、政治の舞台にせり上がってきたのは、そんなタイミングだった。時代が、メディア王を求めたといえなくもない。米国にとって正力が握るメディアは魅力的だった。

原子力の大キャンペーンを開始

 富山県の高岡に生まれた正力は、東京帝大を出て内務省に入り、警察畑を歩んだ。治安維持や政界裏工作に携わる。1923(大正12)年、摂政宮(のちの昭和天皇)が無政府主義者に銃撃される「虎の門事件」が発生し、警備の責任をとって退官。その後、読売新聞を買収して経営権を掌握した。他社にさきかげて「ラジオ欄」を設けて部数を伸ばし、「読売中興の祖」と崇められる。

 戦中、大政翼賛会総務だった正力は、敗戦で、A級戦犯容疑者となり、巣鴨プリズンに収監された。正力に最も早く原子力情報を伝えたのは翼賛会人脈の橋本清之助だった(第1回参照)。正力は、公職追放を解かれると、真っ先に「電波メディア」の開拓にのめりこむ。右腕の柴田秀利を介してワシントンの要人と連携し、「日本テレビ放送網」を創設した。

 その顛末は、早稲田大学教授・有馬哲夫の『日本テレビとCIA『原発・正力・CIA』に詳しい。ノンフィクション作家・佐野眞一の『巨怪伝』と併せて読むと、CIAからエージェントとして「ポダム」の暗号名をつけられた正力がテレビから原発へとのめりこむ経緯が見えてくる。

 正力は「原子力の父」の称号を背に総理の座を狙った。米国の権威と力を利用して原子力のイメージを高め、自ら育てたメディアを駆使して大衆の心理を動かす。 その「大キャンペーン主義」に正力の戦略と人柄が凝縮されている。

 55年1月、衆議院が解散されると、正力は、総選挙に立った。選挙スローガンは「原子力の平和利用による産業革命の達成」である。正力は、故郷、富山の選挙区を回りながら、 原子力! 原子力!」と連呼した。2月末の投票までの間、読売新聞は次から次へと原子力利用の記事を掲載する。こんな見出しが並ぶ。

「広島に原子爐 建設費二二五〇万ドル 米下院で緊急提案」(1月28日)
原子力マーシャル・プランとは 無限の電力供給」(2月10日)
「米国内を洗う原子力革命の波 資本家も゛発電゛に本腰 ウォール街も増築景気」(2月11日夕)
「『広島』に限定せず『日本に原子炉建設』再び提案へ イェーツ議員」(2月12日夕)

 原爆が落とされた広島に、わざわざ原子炉をつくろうという発想は仰天するばかりだが、それほど原発は平和的で、夢に満ちたものだと米国の下院議員は言いたかったのだろう。ともかく、新聞の援護を受けながら正力は選挙戦に挑んだ。しかし富山の純朴な民は原子力産業革命と言われてもピンとこない。選挙は大苦戦を強いられる。

「湯水のような金と人海戦術で、辛うじて当選して帰った」
 と、側近の柴田は回想録『戦後マスコミ回遊記』に記している。


 晴れて国会の赤絨毯を踏んだ正力は、鳩山一郎首相に原子力の重要性を訴えつつ、産業界を糾合する。財界人を説得して「原子力平和利用懇談会」を立ち上げた。経団連会長の石川一郎を筆頭に石坂泰三ら錚々たるメンバーが集まった。これは財界を束ねる「原子力産業会議」への布石であり、次なる大イベントへの準備でもあった。

 正力の策は、強引そうに見えてかなり周到だ。ペラペラ思いつきばかり喋る現代の政治家に比べると、動き方に凄みが漂う。

米国「原子力平和利用使節団」来日、保守大合同

 5月、正力の招聘で米国の「原子力平和利用使節団」が来日した。団長は、原子力潜水艦を進水させたばかりの軍事企業、ジェネラル・ダイナミックス社のジョン・ジェイ・ホプキンス社長。米国の核開発を先導してきた科学者や民間企業の幹部がつき従っていた。日本側の財界人の懇談会は、彼らを迎える器でもあった。


 羽田空港に降り立った使節団は、読売本社日本テレビを訪ねて、カメラのフラッシュを浴びる。超満員の日比谷公会堂での「大講演会」はテレビで中継された。日本政府代表は、使節団との懇談会で「250万ドル」の研究炉購入予算が成立したことを報告し、米国から研究炉を購入するにはどんな手続きが必要か、と訊ねた。ホプキンスは応える。

 日米の双務協定を結ばねばならない。米国議会の承認が必要なので緊急を要する、急いだほうがいい。ホプキンスは、国際会議のスピーチに立ち、アジア太平洋地域の後進性を「原子力共同体」を設立して打ち破れ、と語った。無限のエネルギー原子力を活用すれば、海底大都市計画も夢ではない、と煽る。

 夢想は、とめどもなく膨らんだ。日本はまだ貧しかった。聴衆はバラ色の未来に酔いしれる。坂の上に原子力という雲が浮かんでいる。メディアが酔いをさらに昂ぶらせた。

鳩山一郎内閣は、使節団が滞日中になんと日米原子力協定の締結を閣議決定してしまった。外交としては従属的行動であろう。間をおかず、日米原子力協定による濃縮ウランの受け入れ機関として「財・日本原子力研究所(原研)」が設立される。ホプキンス一行の来日を機に、反核・反米の炎はかき消され、舞台が目まぐるしく転換された。 

正力を陰で支えた柴田秀利は、回想記にこう記す。

使節団一行の来日が、原爆反対即反米の嵐を鎮静させ、政府、世論を動かして、その滞在中に濃縮ウラン受け入れ決定にまで漕ぎつけさせてしまったことは、まさに予想外の成果だったといってよかろう。これでまさに危機一髪にまでさし迫っていた日米関係の絆は、再び固く結び戻され、ソ連共産党の企図した平和攻勢の出鼻を、完全にへし折ることができた。……ホプキンス団長以下米国民間原子力平和利用使節団に対し、深甚なる敬意と感謝を捧げずにはいられない」

 正力のイベント攻勢はまだ続く。55年11〜12月にかけて、日比谷公園2千坪の敷地を使って原子力平和利用博覧会」を開催した。42日間の会期で総入場者数は36万人を超え、大盛況のうちに終了する。得意絶頂の正力は、協力してくれたアメリカ大使館員に、展示物の「小型原子炉」を買いたいので手配しろ、と無理難題をふっかけた。持ち帰って自宅の発電に使うのだと言う。そんなことは不可能だ。恐るべきことに正力は原子力のイロハをわかっていなかった。

 博覧会の会期中、日本政界は、大きく再編成された。自由党民主党の保守大合同が成り、「自由民主党」が誕生。ひと足早く左派、右派が統一された社会党と「55年体制」が形づくられた。自民党主導で盤石の保守路線が敷かれる。


 この保守大合同にも、正力は一枚かんでいた。ホプキンス一行の来日中、慌ただしい日程でカムフラージュするかのように正力は芝伊皿子の料亭「志保原」で密かに自由党総務会長・大野伴睦民主党総務会長・三木武吉を引き合わせ、根回しをしていたのだ。

原子力行政のトップの座に

 鳩山首相は、政界再編の功労者に「防衛大臣」への就任を勧めた。すると……、
「いや、だめだ。ただし原子力大臣ならやる」 へっ? と、鳩山は狐につままれたような顔になる。そんな大臣ポストなどない。
「これからできるんだ。とりあえず、国務大臣ということにしておいてくれたまえ」


 首相が知らないことを、齢70の正力が画策している。国務大臣北海道開発庁長官で念願の初入閣をはたしたが、総理の椅子しか眼中にはない。正力は、勝手に「副総理格」を自任して首相官邸国務大臣室に陣取り、官僚を呼びつけては命令をくだした。

 56年元旦、原子力委員会の発足と同時に委員長に就いた。5月に総理府管轄で「科学技術庁」が発足し、原子力委員会特殊法人に衣替えして、その傘下に入る。正力は、初代科学技術庁長官に就任する。予言どおり「原子力大臣」のポストを得たのである

 名実ともに原子力行政のトップの座についた正力は、研究炉ではなく、実用的な商業炉の導入に猪突猛進した。「五年以内に原子力発電所を建設する」とぶちあげ、ノーベル賞学者で原子力委員の湯川秀樹らの猛反発を食ったが、海外から「出来上がったものをそっくり買い入れる」やり方を譲ろうとはしなかった。原発導入で電力を中心とする産業界を味方につけて、政界の頂点へ一直線に達する夢を見ていた。

 正力は、茨城県東海村の百万坪の広大な敷地に原研の拠点を置き、商業用一号炉の建設予定地とした。東海原子力発電所の創設が具体化する。

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