「71才の365日」3月4日(日)早朝は雪0℃ 「東日本大震災」360日

*朝トレ:男体山の悪口言ったら又雪が降った。今日は細雪、我れには涙雨に等しい。コーチからダメ出し。



*「東日本大震災」360日

今日の一題  震災1年/ 1.「爪痕と再出発 私たちは何を学んだか」

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毎日さんが、これからのシリーズで何を解き明かしてくれるかは楽しみですが、我れも思います。(keniti3545)

◇政治の解決力強化を◇という項目で、・一つは、政治の重要性であるが、これはこの1年間政治がうまく機能していなかったことの逆説的総括である。・二つ目に原発・エネルギー政策の根源的見直しの必然性である。私たちは、原発安全神話にあまりにも安直にのっかってきたことであり、今後原発依存をどう解消していくかである。としているが、正にその通りだと思います。

今日も、我れの言いたいことは一点です。「東日本大震災」被災後の救援、支援に差し伸べられた手は国の手に購いきれない重荷を少なからず軽くしてくれました。外国からの資金援助・救援隊、国内各地からの数知れないボランティアの献身的な働き、その中には有名無名のアスリートもアーチストも数多含まれています。こういう人達の力が(国の)組織第一線で決死の働きをする自衛隊員。消防団員・警察官などの力をどれだか勇気づけどれだけパワーupさせたか計り知れない物があります。

 しかし、こんなにも底知れないパワーも実は半減されたものなのです。今回の東日本大震災では国民全てが認識しているように、「地震・大津波」と「放射線被爆」という二種類のの被災が起きています。「地震津波」の自然災害で被災した方々も、「放射線被爆」に合われた方々も共に「心と体に受けた傷」は側の人には計り知れない重く大きなものです。

 その中にあって、「放射線被曝・放射線汚染」という問題は二次、三次の被害が出てくるのです。昨夜NHKスペシャルという番組で「原発事故から100時間の官邸と住民」を、映像と証言で再現していましたが。 「政府の危機管理」の体を成していない現状、「何百年に一度という大きさの津波の驚異」、を浮き彫りにしましたが、 「目には見えない悪魔・凶器」である「放射線」の被害は「次元を異に」している事も浮き彫りにされている

 「証言する消防団員が涙ながらに語る」、がれきの下に「人の存在」を感じながら、「原発の爆発」→「放射性物質の飛散」→「高濃度の放射線汚染地区の拡大」→「被爆からの住民避難誘導優先」←「人員不足の消防団員は作業の優先順位を変更される」。朝を待って救出に向かう筈だった場所へは向かえず。→数日後に、やはりその場所からは元「同僚の消防団員の遺体が発見された」。

消防団員は自分を攻める、深夜に受けた撤収の指示を振り切ってでも、あのとき現場へ引き返すべきだった。と、 


「病院の看護師長(女性)も涙を堪えながら語る、何の情報も無いままにバスが用意出来たから動ける人から避難させなさい。理由は、原発と言う言葉もないほどあいまいな説明「ベント」がどうとか、ただ来るべき時が来たのかとは思ったという。

 重症患者をヘリで移送と成ったときには、何人かの搬送後夜になってヘリが来なくなったが、当たり前のように連絡もない。見捨てられたのかもと思いながら夜を過ごしたと言うが、この時間帯にも「又お一人が亡くなった」。 夜明けと共に救助のヘリが又飛び始めて助かったのかとほっとしたが、朝一番の救助ヘリの隊員には、お亡くなりになった方を一番先に「息はしていませんが生きています」と一番先に乗せていただいたと言うことでした。みんなと一緒に一晩明かした方を院内に安置されたご遺体と一緒に残して行くことは出来なかった。と初めて涙を流しました。

 政府の危機管理の不手際でこの病院の患者さんは二度、三度と転送されてこの間に亡くなられた方は30名近くにも上ると言うことでした。看護師長は言葉を繋ぎます、もっと良い方法はあったはずですこの避難方法も・・・。と、

 人命救助に当たりながら自分の命を落とした消防団員の方も数多くいました、がれきの下で救助を待っていて「亡くなった団員」のご両親も言っていました。たかが、発電所の事故のために息子の命が奪われたと思うと悔しくて仕方がない。と、 

 放射線被曝を少しでも小さくしようと努力(?)する段階でこんなにも大きな被害がでているのです。 我れがこの文の初めに、「311」に寄せられた「善意の力」・「被災者自身の力」が半減されたものなのだと言ったのはこの「事実」なのです。

 この目に見えない敵と戦った、今も戦っている力「パワー」は想像を絶する物があります。もし、この力を純粋に「地震津波」だけの対応に向けられたら「どれだけ早く・どれだけ大きな復興が望めたか」考えてしまいます。そして、これは単なる「ればたら」の思いではなく、今後も阻止出来ない事故を起こす可能性の高い「原発」という設備を「0」にした社会をシミュレートしなければならない「必要性は非常に高い」ものと思われます。 


 しかもこの事故はまだ終わっていません。学者先生に言わせれば「この事故に収束という言葉は無い」とも。 更に予見出来ることは、この「悪魔の凶器放射性物質放射線」はこれから、「世紀を超えて被害を拡大して行く」のです。至近距離での放射線被曝をされた方、更に法律で決められているいる「1ミリシーベルト/年」以下を超える被爆者の数は予想も付かない数でしょうし、はっきり「危険視」されている「20ミリシーベルト/年」を既に超えている人の数も驚くような人数ではないでしょうか。この人達の「後遺症」と呼ばれる現象は「自分の一生では背負いきれず」、子・孫の代までついて回るのです。 (keniti3545)



此処からも、昨日の読売新聞の事故の検証はしっかりやれ、備えを万全に一日も早く原発の再稼働を。と言うのは常軌をを逸した論旨であると思います。 どうしても4月末に「原発0」の瞬間を迎えてそれの維持に向けた大きな声が上がるのを期待します。 我れも精一杯大きな声を上げたいと思います。「さよなら原発」 (keniti3545)
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2012.3.3毎日新聞社説:震災1年/1爪痕と再出発 私たちは何を学んだか

 海岸線が迫った15メートルほどの高台に上がると、そこからは広々とした農地が望めた。福島県相馬、南相馬両市にまたがる八沢浦干拓地だ。

 東日本大震災の大津波はここでも猛威をふるった。平地の集落を押し流しただけではない。緊急避難場所に指定されていたこの高台にまで到達、退避中の住民30人余の命を奪い、干拓地の鎮守として大事にされていた山田神社も社殿ごと流失した。

 そんな破壊の傷痕を少しでも癒やそうという被災地支援の試みが2月下旬にあった。全国でも珍しい宮大工を養成する熊本県立球磨工業高校が山田神社の仮社殿を寄贈したのだ。昨年この地でボランティア活動した熊本県宮司さんが仲介した。

 ◇地域、世代超えた絆 高さ2メートルの

ミニ社殿だが、氏子189戸の総代長を務める但野幸一さん(59)は「農業を復興させようという意欲が出てきた」と感謝を伝え、社殿設置作業に訪れた専攻科1年の平識(へしき)有希乃さん(19)は「津波で家が流され、土台だけ残されているのを見て、心が苦しくなりました。みなさんに元気になってほしい。神社が、住民の心の支えになるとうれしい」とエールを交換した。

 南相馬から海岸線を北上して約100キロの宮城県石巻市牡鹿半島。入り江ごとにあるカキ養殖の集落の一つ、小網倉浜で漁師の阿部亮一さん(51)に出会った。あの日はちょうど出漁中で、沖へ出て津波から逃れた。だが、2日後に浜に戻り惨禍に衝撃を受けた。50世帯、120人の集落で16人が亡くなり、漁船も漁具もごっそりやられていた。

 やる気を失っていた阿部さんたちに刺激を与えたのが、都会から来たボランティアだった。網やロープでがんじがらめになっていた漁具のかたまりを忍耐強く一つ一つほぐして使えるものを取り出してくれた。半信半疑だった阿部さんたちもいつの間にか浜に出て共同作業をしていた。夏にはカキの稚苗をホタテのカラに植え付け海につるすところまでいった。

 「ここまできたのもボランティアのおかげ。すごい力だっちゃ。これは忘れねえ」

 早ければ今年秋にも最初の収穫を迎えることができる、という。

 被災した地域を歩いてみると、あちこちでこういったエピソードと出合うことができる。何とか復興に向けて前に進もうとする被災者と、少しでも役に立ちたい、と支援の手を差し伸べる側と、地域と世代を超えた絆の世界が今なお広がっている。災害の爪痕は残るものの、再出発の動きもまた始まりつつあるのだ。

 3・11から1年。私たちは何を失い、何を学んだのか。これを機に考えてみたい。

 失ったものは、あまりにも大きかった。約2万人の尊い人命と、数十万人のかけがえのない財産と生活、生産現場や雇用も奪われた。福島の原発被災地域では、ふるさとに住み続ける自由さえ失われている。

 得たものはあったのか。逆境に負けずたくましく生活を再建させていく日本人の強さを世界に再認識させた。人の痛みを自ら引き受けようとする「絆」や連帯意識の強さが改めてクローズアップされた。南相馬牡鹿半島で私たちが見てきたものもその一コマであった。

 ◇政治の解決力強化を 

では、何を学んだのか。ここでは二つのことを取り上げてみよう。

 一つは、政治の重要性である。これはこの1年間政治がうまく機能していなかったことの逆説的総括である。今振り返っても3・11後の日本政治は混迷を極めた。いくつもの対策本部は設置されたが、政治家が責任を持って決断し官僚がその専門的能力をフルに出し切る、という本来の意味での政治主導を実現するには至らなかった。与野党が一致協力して短期集中的に問題解決を図る、という政治のダイナミズムが発揮されることもなかった。与党内の足並みの乱れが政局の混乱を加速させた。 このため、政治にしか解決できない問題の処理が軒並み遅れた。4兆円の第1次補正予算が成立したのが5月2日。復興期間、規模、財源、特区など復興の基本的方向性を定めた「復興基本方針」策定は地震から4カ月半後の7月29日までずれこんだ。帝都復興院が関東大震災後4週間で設置されたのに比べ、復興庁の発足は発生11カ月後の2月10日を待たなければならなかった。

 政治の問題解決能力を強化すること。これは、これから起こりうる災害に対し私たちが自分を守るためにも重要だし、3・11以外の日本が抱えるさまざまな懸案事項を前進させるためにも必要不可欠である。

 二つ目に、原発・エネルギー政策の根源的見直しの必然性である。私たちは、原発安全神話にあまりにも安直にのっかってきた。原発依存をどう解消していくか。その穴を代替エネルギーでどう埋めていくのか。いわゆる核のゴミ問題をどう解決するのか。いずれも難しい課題だが、日本がこれらの解決先進国になれれば、世界に対して貢献できる。

 学んだことを将来にいかしたい。そのために私たちはこの「震災1年」シリーズで3・11をいくつかのテーマに切り分け、提言する。

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◎斬新な提言を期待したいと思っています。 (keniti3545)