「71才の365日」2月2日(木)曇り−7℃「東日本大震災」329日

*朝トレ:8時20分〜9時10分

玄関出発−7℃、帰着9時15分−6℃お日さまが顔見せないと9時でも−6℃? 驚くこともないか、昨日から靴下重ね履いたら凍傷もどきも癒えた。我れのコースもぼこぼこだが、川原で動く巨大ロボット(ユンボ)二体も頑張っている。

 自分で道を切り開き、1台目には砕石用の頃合いの大きめ、次のダンプには護岸工事用の土台石か?何とも器用に腕を伸び縮みさせ、振り下ろし擦りつけ動き回っている。「あいつ」は寒く無いんだろうな〜、我れは自身の体温upが−7℃の気温に勝てず手足の指先が相変わらず痛くなる。

 特に今日は、最終走になっても太陽が覗かず、終末体操も停止出来ずに歩行中に入れた。見ると、カラスも電線に来ず、桜の低い枝で倉井さん家の庭を伺っていた。ぼこぼこコースで6本の走入り、距離4km特別にB下評価にて本日の朝トレ終了。帰路に行き会い人無し。





*「東日本大震災」329日


「今日の一題」 ありました! 『昨日の我れの問い箕面通信さんが見事答えてくれました』!?

川内村帰村宣言」こんなとんでもない話に何故反論が無い!?   『これが真実か』?!


*悔しい!! 臭いと思って叫びましたがこんなカラクリが?昨日の「今日の一題」からお目通し下さい。 

さすがです! 箕面通信さんとは、一線を画したい記事にもお目に掛かることがありますが今日の記事は我れの疑問を払拭してくれる記事に成りました。 一方では、当然ながら、「政府には不信感が倍増です!」。




生き生き箕面通信1151 2012-02-02 06:50:25 | 日記 


川内村の帰村に見る政府の怠慢

 遠藤雄幸という福島県川内村の村長さんが1月31日に「帰村
宣言」をしました。大手メディアも「原発事故後初めて」と大きく
報じました。ただ、奇妙なのは、川内村放射能汚染が現在
どの程度まで下がったのか、どの新聞も一切数値を出していな
いことです。
本来なら、「ここまで放射能の線量が下がったから
大丈夫」と判断するはずです。ところがその科学的根拠が全く
示されていないのです。


 実は、政府の間違った情報によって、もともと必要のない避難
をさせられたのだ、という見方が出されています。事実、新聞に
掲載された帰村宣言ニュースに添付された汚染マップをよく見る
と、川内村ははじめからほとんど汚染されていません。


 では、なぜ全村避難となったのか。それが、例の20キロ、30
キロとコンパスで描いた政府の汚染マップ半円地図です。川内
村は汚染されていないにもかかわらず、この半円の中に含まれ
るというだけで無用の避難をすることになった。政府がコンパス
で書いた”危険地域”を半円地図でいつまでも出し続けたために、
必要のない全村避難に追い込まれたわけです。


 ではなぜ、政府が「安全だから、村に帰れますよ」と安全宣言
しないのか。それは、政府が間違って避難させてしまったという
「政府のミス」を認めたくないからです。


 つまり、スピーディの汚染地図を出さなかったこと、情報隠しを
したことを明らかにされたくないということです。


 政府というものは、世論操作のため意図的に情報を扱います。
ときには隠し、ときには都合のいい情報だけを大げさにいいふら
します。つまり、政府は正直ではない、権力を持つものはインチキ
をするということを前提に考える必要があります。だから、事故当
時、アメリカをはじめ外国には出したスピーディの汚染マップを出
させるよう強く求めるべきでした。


 しかし、一般の私たちにはその重要性がすぐには分かりません。
そういう時にこそ、メディアがジャーナリズム精神を発揮する働き
場でした。
ところが、この日本では大手メディアが、政府の飼い犬
になってしまっていました。政府や東電が出す情報を「大本営
表」として、ただ無批判にたれ流すだけでした
。当時は、確かに
大変だったと思います。しかし、それでも、いつまでも半円地図だ
けを出し続けるのがおかしいのは気づいていました。それを追及
し、情報を公開されるよう迫るべきでした。本来のジャーナリズム
の機能が失われたいたのです。


 やはり、私たち自身がしっかりする必要があります。政府をはじ
め権力を持つ側が私たちに何をしようとしているのか、メディアは
本当のことを伝えようとする努力をしているか、読み解く力が欠か
せません。


 川内村の遠藤村長さんは、自分の頭で考え、自分で判断を下し
ました。それは、政府に対する、同時に大手メディアに対する反撃
であり、「尊い決断」といえるのではないでしょうか。

・・・・・ ・・・・・ ・・・・・ ・・・・・ ・・・・・
 ↑↑ 此処までが今日の結論ですが。



◎此処からの読み比べ後に、我れの書いた結論は上記結果が分かっていたとしても村長は更にもう一度の熟考あってからの決断として欲しかった。この段階での宣言はまるまる政府のやらせに乗せられていませんか? 公式に発表のない安全度はどのレベルなんですか大きな心配は残したままです。

◎性急すぎる。

◎安全面はどうなっているのか。

◎今すぐに、と急ぐ人は皆な、「自分の事が最優先の考え」これは当然のことではあるが、大局を見失っては居ないか? 現在の心境に東電や、行政につけ込まれては居ないのか? 町長が言う「時間が掛かれば村の崩壊」の恐れ、それより100倍も大切なことは村民の、特に子供達・これから子を持とうとする若い世代の安全では無いのか?

 そこはどうなるのだ?誰が保証するのですか?もう2年経過すればセシウム134の半減期がくる。それまでに、急ぎたい人達を煽って、既成事実を作り上げておく。そりゃあ、行政も人が帰ればお金も出しやすい。インフラ整備などある程度なら直ぐにも出来ますよ。

 
 今既に200人が不自由な思い、不安な思いをしながら自主的なとは言うが他に方法が無く仕方なしに此処で生活をしている人、お年寄りを主に500人も集めれば今後の在住希望者数の1/3ぐらいは確保できるでしょう(現時点での公称村民数は約3000人という)。しかし、よく考えて欲しいのは此処からです。(1)、例え高齢者であれ、健康維持の為の安全を確保されないまま、しかも本人達のは自由意志で戻ったと言わしめ責任逃れを用意しつつ巧妙に連れ戻そうとする企みは透けて見えます。現時点で、既に周りから直接「まった」を掛ける事はおろか、再考を促すことも困難になっていると思われます。


 ”帰れる”と思い詰めた人達には、勇気を持って問題提起してみても受け入れられる無いことは当然、此方が「大悪者」になってしまうでしょう。 (2)、将来的には、大きな責任問題に成ること必至ですが、事故当時の「政府・東電」の発表、報告を思い出します「差し当たって健康に問題はない」、今回の帰村に関しても低線量被爆では2年、3年等の期間には大きな健康被害などは発覚しない」かも知れません。しかし、それを逆手に取って、弱者を犠牲にする施策は許されるものではありません。


 此処は、一番第三者的な見方・判断の出来るマスコミのせめて「よく考えて下さいと言うアピール」、声を大にして訴えて頂きたいと思います。 有識者、科学者も確り、後付でない見解を示して下さい。今帰って良いと思う科学者がいれば、その方々も意見を述べて下さい。 もし、「現状で」当事者の自由意志で帰村させたいという村長支持の方も居られるならご意見をお聞きしたいと思うのですが・・・。

 ↑ ”この答えが今日の箕面通信さん記事”(前出)でした! (keniti3545)


各紙読み比べ (社説コラム種々です)

毎日新聞 2/2

帰村宣言にこもる苦渋の決断

「村民が転んでも国や県は起こしてはくれない。村の人間が抱き上げていかなければならない」。福島・川内村村長の帰村宣言にこもる苦渋の決断。

 政治に絶望せざるを得ない、とその言葉は伝える。やじ飛びかう国会よ、しばし沈黙し、この言葉を胸中に繰り返しては。



*(2012年2月2日 福島民友ニュース)

「いつまでも避難民ではいられない」 川内で店再開へ

 川内村の「帰村宣言」から一夜明けた1日、「宣言はあったものの、今までと変わらない」という村民も多い中、「宣言が後押しになった」と新たな生活に一歩を踏み出した村民もいた。
 同村の鮮魚や食料品、生活雑貨などを取り扱う「とりじ商店」。同店を営む箭内義之さん(62)敬子さん(62)夫妻は4月を目標に店を再開するつもりだ。
 これまでも少しずつ店の掃除などを進めてきたが、1日、新たな気持ちで店の窓を開け、風を通した。原発事故後、郡山市の次男の家や二次避難先の旅館、借り上げアパートなどを転々とし避難を続け、昨年12月ごろからは週に2、3回、川内の自宅兼店舗に戻るようになった。
 近所に住む高齢者からは「いつ店が開くの」と尋ねられた。しかし、店を開けても客は来るのか、戻ってから生活はできるのか、さまざまな不安からなかなか一歩を踏み出せずにいた。しかし、村長の宣言を受け「思い切って店を開けよう」と踏ん切りがついたという。
 「生まれてきてからずっとやってきた店。いつまでも避難民ではいられない」と義之さんは話し、箭内さん夫妻は前を見据えた。




信濃毎日新聞2月2日(木)「信毎ウエブ」

川内村の帰村 丁寧で強力な支援


 福島第1原発の事故で全村避難した福島県川内村の遠藤雄幸村長が「帰村宣言」を行い、住民に対し無理のない形で村に戻るよう呼び掛けた。

 放射能汚染、雇用の場、教育、医療の態勢…。分からないことや不安がいっぱいの中での宣言だ。「戻れる人は戻る。心配な人はもう少し様子を見てから戻る」。宣言は帰村の基本姿勢をこんなふうにうたっている。


 村の人たちが元の暮らしをなるべく早く取り戻せるよう、国や県は全面支援すべきだ。

 3月11日の事故の後、川内村は「緊急時避難準備区域」に指定され、村民のほとんどは福島県内外に逃れた。役場の機能は今も郡山市にある。

 昨年9月に準備区域の指定が解除されたものの、村民の多くは避難生活を続けている。いま村に住むのは、震災前の人口約3千人のうち200人ほどにとどまる。

 原発事故収束の確かなシナリオはまだ描けていない。雇用の場も失われたままだ。

 遠藤村長は昨年秋、福島県内の自治体関係者らによる調査団の一員としてチェルノブイリ原発事故の現地を訪ねている。

 なるべく早く帰らないと、チェルノブイリと同じように村が消えてしまう―。この時期の宣言にはそんな思いがあるのだろう。

 文部科学省によると、村内の積算線量推計値は村の大部分で年1〜5ミリシーベルト。安全は確保されたと村は判断している。

 これ以下だったら健康被害はない、と言い切れる数値は放射能の場合は存在しない。研究者の多くはそう指摘する。村長が「大丈夫」と言っても、戻らない人は大勢でてくることだろう。帰村宣言が村に新たな亀裂を生じさせる心配も否定しきれない。

 「息子の嫁に『村に帰っても子どもたちは呼ばないで』と言われた」。村の人の言葉が伝えられている。そういう気持ちに寄り添うことが、帰村をスムーズに進めるポイントだ。

 公共施設や学校の除染を3月末までに完了。新年度に役場、保育園、小中学校、村立診療所を再開する。農地は4月以降、森林は2013年度以降に除染開始―。村はこんな計画を立てている。

 避難準備区域には川内村のほか南相馬市広野町など4市町が指定され、住民が避難した。川内村の帰村が順調に進めばこうした人々の励みになるだろう。国や福島県は村の事情を最大限にくみ取って支援してもらいたい。




河北新報東北のニュース(2012年02月01日水曜日)

川内村「帰村宣言」 村民「国・東電信じられない」

記者会見に先立って佐藤雄平福島県知事(左)に帰村宣言のあらましを報告する遠藤村長=県庁


 福島第1原発事故で役場機能を移転した福島県内の9町村で初めて、川内村が「帰村宣言」を出した。緊急時避難準備区域の指定が昨年9月末に解除され、大半の村民が帰れる状況になったが、現在住んでいるのは村人口の7%。地域崩壊を警戒する村は早期帰還を呼び掛けるものの、賠償問題や放射線への不安、産業復興などを乗り越えなければならない。

 川内村では電気、ガス、水道、ごみ処理などのインフラは復旧済み。村中心部の空間放射線量は毎時0.1マイクロシーベルトで、福島市郡山市の数分の1程度と低く、他市町村より帰還への環境は整っている。
 しかし、村民の帰還は進まない。村人口約3000人のうち現在、村内に住むのは約200人。昨年9月の時点では約220人で、緊急時避難準備区域の指定が解除され、帰還が促されたにもかかわらず、減少した。
 帰還に踏み切れない大きな原因として村民が指摘するのは、皮肉にも、避難者の生活を守るための原子力損害賠償の存在。
 原発事故による避難者には、精神的損害に対する賠償として東京電力から1人当たり月10万円が支払われているが、避難先から村に戻れば受け取れなくなるからだ。
 「村民の約7割が郡山市に避難している。お金をもらって都会で暮らせるうちは、田舎の村には戻ってこない」と村民の一人は賠償制度の在り方を疑問視する。
 村内の線量は比較的低いが、放射線への恐怖感は全村避難を経験した村民に刻み込まれた。村中心部から第1原発への距離は20キロちょっと。村東部は今も警戒区域だ。
 事故対策が後手後手になった国や東電への不信感は強い。「国の事故収束宣言は誰も信じていない。(建屋が壊れ)むき出しの3号機や4号機が大きな余震で崩れたらまた避難だ」と別の村民は話す。
 村はコメの作付け制限を今年も継続する方針を示し、「コメを作れないのでは帰っても仕方がない」と農家には落胆が広がっている。
 「景気がいいのは除染ビジネスだけ。村民が戻ってこないので商店は大変だ。村の産業構造がいびつになりかねない」と村商工会は危機感を強める。




*(産経新聞)2012年2月1日(水)08:00

川内村帰村宣言 除染・雇用・学校…積もる課題  「やっと」しかし「住む所ない」

 東京電力福島第1原発の事故後、避難区域の自治体として初めて「帰還」を宣言した福島県川内村。村内の多くの地域では避難区域指定が解除され、インフラの復旧が進むが、雇用の確保など課題も多い。「住む所がない」「やっと帰れる」「子供は大丈夫か」。避難する住民の心は揺れている。遠藤雄幸村長が目指す3月末までの完全帰還は達成できるのか…。(福田徳行、荒船清太)

                   ◇

 31日、雪が約1メートル積もった川内村には人影がなかった。「客は冬になってさらに減った。赤字続きだ」。村内にとどまり、昨年5月からコンビニエンスストアを開けている秋元安志さん(37)はそう話す。

 電気、ガス、水道などの主要インフラは同9月時点で復旧。放射線量は主な避難先の同県郡山市よりも低い。それでもすでに戻っている住民は2900人中200人ほどで、事故以降、ほとんど変わっていない。

 確かに村内には閉鎖した商店が多いが、それも震災前からの話。スーパー、病院、高校、大学…。いずれもないなかで村民を引きつけてきたのはキノコや山菜が採れる豊富な自然だ。それが放射能の影響で当分、収穫ができなくなった。

 同市に避難するラーメン店店主、青山孝三さん(62)は毎年、秘密の場所でマツタケを採るのが趣味だった。だが、「客もマツタケもなけりゃ戻ってもなぁ…」と嘆く。

 「村には帰らない」と断言するのは、警戒区域内から同市の仮設住宅に避難する佐藤マサ子さん(75)だ。同区域の除染は手つかずで、住民の仮設住宅建設はこれから。佐藤さんは「帰っていいといわれても住む所がない」と話す。

 同市の仮設住宅に住む農業、遠藤豊治さん(68)も帰るつもりはない。村は今春から1年間、コメの作付けを見合わせるからだ。「作れないのに帰ってもしようがない。年金と貯金で生きるだけ」という。

 雇用確保のため、村は製造業の誘致や放射能の影響が低い水耕栽培への転換などを目指すが、雇用がどこまで伸ばせるかは未知数。いまだに大きな雇用のある福島第1原発につながる道路の立ち入り解除も未定だ。除染完了も4月以降にずれ込む見込みで、「もうノイローゼだ」と遠藤さんは嘆く。

 帰還を決めた住民にも不安は残る。同市の仮設住宅に住む古内篤さん(53)は今春、中学校に進学する長男が心配だ。村の小中学校は児童・生徒がゼロの学年もある。古内さんは「せっかく帰っても誰もいないと、かわいそう」と表情を曇らせた。

 「旦那も母も地元が好き。やっと帰れます」と話すのは、月の大半を村で過ごす秋元敬子さん(56)。

 村に戻った人のため、農産物の直売所を利用して開設された交流サロン「絆のひろば」で働く西山かね子さん(62)は「待っている側としては、帰村宣言はうれしい。1人でも2人でも戻ってきてほしい」と笑顔で話した。


*政府は今後も”、原発処理に関しても”、世紀をまたいでまでもウソを言い続けるのですかね〜!。(keniti3545)