「71才の365日」8月13日(土)晴れ22℃ 「東日本大震災」156日

*朝トレ:6時30分〜7時30分

今日も、待ったがチビッコギャングとのコラボは無し。彼らは、昨日の大谷川公園は収獲大だった。オニヤンマ2匹、シオカラトンボ・カブト5匹・ジイチャン小さな乳茸(チタケ)3ヶ→もっとびっくりが「世界の昆虫展」、カブト虫も、クワガタも桁外れの大きさ! ギャング達その割びっくりしてないんですよね? ジイチャンが一番びっくりしてました。9才、パソコンおもちゃにしていれば何でも解っちゃう? これ良いこと?悪いこと?ジイチャンはノーコメントです。とにかく6時30分には起床不可。

今日も最高の気分で淡々とメニュー消化、走14本は無理無し。歩行は何本に成るだろう? 歩行中盤にカラスつがいで登場、「お早う」の挨拶交わせて何よりだ。最近、ご貴殿達の立ち居振る舞いが羨ましく感じます。我が独房が静になるにはもう四、五日掛かります。我に翼あればお仲間に入れてほしいところですが、ご夫婦の中に割っては入れませんね。脇の林のウグイスA君、もしかして我が家の裏空き地の檜から高鳴き響かせていませんか?帰路行き会い人無し。


*昂佑パパ来て一休み、ジイチャンは、女房殿をお供に(我れがお供かも?)初盆2件、お線香を手向けにお出かけ。





*「東日本大震災」156日

今日の一題


鉄腕アトム原発反対です!」


特集ワイド:この夏に会いたい/7 漫画家・手塚治虫さん

ピーク時には月産600ページにも達した。週刊誌1話分を毎日描いた計算だ=1983年 ◆漫画家 手塚治虫さん(1989年死去、享年60)

 ◇科学の子の哀しみ 「欲望の結末」問い続け 「アトムが住んでいた」という街に出かけた。都電に揺られて。

 池袋の隣町なのに、時が止まったようなたたずまいが残る東京都豊島区雑司が谷鬼子母神前セミの声が降るケヤキ並木から入った路地に、手塚治虫さんが1950年代に暮らした2階建てアパートがある。

 55年の雑誌「少年」新年号の付録「鉄腕アトム」表紙裏には、アトムから読者への手紙という体裁で、こんな一文がある。

 <いま、ぼくは東京の雑司ケ谷に、一年あとで生まれた、ロボットのおとうさんとおかあさんといっしょにすんでいます>

 このアパート2階の一室から、他にも「火の鳥」などの名編が生まれた。現在の大家さん、砂金(いさご)宏和さん(58)は「記念写真を撮っていかれる手塚ファンの方が今もいらっしゃいます」と話す。祖父が建てたこの「並木ハウス」、間取りや外観は約60年前の建築当時と変わらないが、数年前に耐震補強を施したそうだ。


 東日本大震災、福島第1原発事故後に一気に高まった脱原発世論。「10万馬力の原子力小型モーター」が搭載されたアトムは「原子力推進の一翼を担った」と一部で指弾を受けた。
 新たな表現の世界を切り開き、マンガ大国の礎を築いた手塚治虫。単に「バラ色の未来」の象徴として、原子力ロボットを描き続けたのだろうか。アトムに込めた思いを知りたい。

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 「アトムについては、原子力関係の方からキャラクターとして使いたい、という話がずいぶんありました」。新宿区高田馬場、アトムの石像が正面玄関で出迎えてくれる手塚プロダクションの一室でこう語るのは松谷孝征さん(66)。出版社の「手塚番」編集者から、マネジャーとして73年に手塚プロ入社。85年からは社長を務める。最晩年に至るまでの手塚さんの仕事ぶりを知る人物だ。「でも、手塚は『原発は安全性が確立されている技術ではない。まして人間が管理している。人間は間違いを犯すものだ』と言って、原発関係は一切断っていました」

 当時はそんなことはまるで知らなかった、と無念そうに話すのは長女の手塚るみ子さん(47)だ。20年以上前、父と娘の間では、原発をめぐってこんなやり取りがあった。

 87年に大学を卒業したるみ子さんは、広告代理店に入社。社会人1年目のその年、先輩社員からある「打診」を受ける。89年開催の横浜博覧会の東京電力パビリオン企画受注のため、「手塚治虫さんにプロデューサーを引き受けるよう頼んでほしい」というのだ。

 帰宅後に話すと、仕事の手を休めて耳を傾けた父は「うーん、東京電力か」と難しい表情を見せた。

 「私が理由を尋ねると、父は原子力発電の問題があるし……』と。父の原子力への思いを知らなかった私は、プレゼンに勝ちたい、自分もこのイベントに関わりたい、という気持ちだったんです」

 その後、代理店から手塚プロに正式の依頼があり、「原発が前面に出た企画ではない」ことなどから、手塚さんがプロデューサー役を引き受ける。そのかいあってか、るみ子さんが勤める代理店が受注を勝ち取ったが、博覧会本番を前に手塚さんは他界した。

 父の死後、その膨大な作品に改めて触れ、「手塚治虫の世界」への認識を新たにした。「父の作品には、人間が欲望を追求するあまり、科学技術の扱い方を誤り、大きな悲劇に直面する世界が繰り返し描かれている」と語る。表現者としてのポリシーと、愛娘からの「お願い」に応えたい親心の間で揺れたであろう胸の内。「振り返ると、本当に申し訳ない気持ちで……」

 死の前年、漫画評論誌の取材に「ぼくは原発に反対です。はっきりそう書いてください」と語った手塚さん。震災後の現状を見たら、何を思うだろうか。
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 「その時々の社会問題を必ずネタにしていた人ですからね。今生きていれば、間違いなくフクシマを作品にしていたと思いますよ」と堀田あきおさん(55)は語る。78年に手塚プロ入社、漫画家として独立するまでの2年7カ月、アシスタントとして仕えた「元弟子」の一人だ。「来るべき世界」で核戦争後の世界を、「ジャングル大帝」で環境問題を、「ブラック・ジャック」で公害を−−手塚作品が世の中に問うてきたテーマは多岐にわたる。深刻な題材をエンターテインメントとして描き、漫画の質を、文学や映画と同等、あるいはそれ以上に高めた。「出版業界に気骨のある人がいたということでもある」。そう堀田さんは語る。

 社会派の作品を数多く手がける漫画家、石坂啓さん(55)も、堀田さんと同期入社の手塚門下生。「手塚先生はあれだけ膨大な作品を残しながら、ただの一度も戦争を正当化したり美化するようなことを描いていない。先生に対して恥ずかしいと思うような仕事はできない」。2人に、今読むべき手塚作品を聞くと、期せずして一致したのが、「聖なる広場の物語」(手塚治虫漫画全集「メタモルフォーゼ」所収)だ。
 鳥の世界を舞台に、2羽の乱暴者が縄張り争いを繰り広げる。相手に勝つため、人間が残した廃棄物で汚染された砂を浴び、それぞれ異形の生き物へと変身していく。科学技術の負の側面、欲望のグロテスクな結末、名もなき小さな鳥たちの勇気−−さまざまな寓意(ぐうい)が込められた29ページの短編だ。

 すでにベテランの域に達した2人は、今回の原発事故を受けて、漫画家として何か作品にできないかと話し合った。堀田さんが言う。「先生が作品を通じて警鐘を鳴らしていたにもかかわらず、こんな悲劇が起きた。東電の責任はもちろん、原発を推進してきた政治の責任、それからメディアの責任、事故の悲劇にとどまらないさまざまな側面がある。簡単ではないが、ぜひ描いてみたい」

 手塚さんは、著書「ガラスの地球を救え」の中で、次のように記している。

 <先端の科学技術が暴走すれば、どんなことになるか、幸せのための技術が人類滅亡の引き金ともなりかねない、いや現になりつつあることをテーマにしているのです。(略)十万馬力の正義の味方『鉄腕アトム』も、科学至上主義で描いた作品では決してないことは、よく読んでいただければわかることです>
 
感情を持ちながら人間になり切れず、それでも人間の味方としてロボットと戦う。この疎外構造を、手塚さんは「アトムの哀(かな)しみ」と表現した。 死の灰を降らせるな」と非難されたアトムが「ボクは正義の味方だと思っていたのになあ」と悲しげにつぶやく−−85年にはそんな一コマ作品まで描いた手塚さん。アトム(原子)という名前にも、科学の希望と限界、その先にある地球と人間の皮肉な関係、そんな意味を込めたのかもしれない。
 そう思いながら歩く雑司が谷ケヤキ並木。焼けるような日差しが一転、空は見る間に雲を集め、雷鳴とともに大粒の雨が落ちてきた。【井田純】

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* コメントを付け加える必要もありませんが、敢えて言わせてもらえば。40年、50年更に我れなどの記憶に無い年代からかも知れませんが。原子力に関わる学者間でも、科学を信頼する一般人の間でも常に「原発」の恐怖を感じ訴え続けた人たちがいたのですね。現在の小出裕章氏(京大原子炉実験所助教)は40年間原発の危険性と脱原発を訴え続け、庶民のアイドル的「漫画のスーパースターアトム」(漫画家・手塚治虫氏の分身)も自身の拘わった使命の中に疑問・疑念を持って悩み続けた。人間の欲望と傲慢さが自然を破壊ししつある今、そして気がついた今、この「国民総意」とも言うべき「脱原発の思い」に至った今、政治の世界にもしっかり「舵取りの出来るリーダー」がほしいと「思って」、 「願って」止みません! (keniti3545)