「71才の365日」6月11日(土)雨14℃ 「東日本大震災」93日

*朝トレ:雨で中止


後記:PM3時30分〜4時30分 降雨一休み中に取れた時間で

  ・カラスのつがい我が家付近まで遠征ありなのだ、我れが5分で行き着く距離だものテリト   リー内か?
  ・トレーニング中、今日のお相手は倉井さん家のブチと茶トラの二人、遠く庭内の渡り板と
   柵外の青地から、同じような腹ばいの姿勢でじっと睨んでいた。昼庭は二人の天下?
  ・コース林はずっと静、川原側からはまばらな鳴き声あり。メニューは消化、汗もかけた。 



*「東日本大震災」93日

◎ 「被災から3ヶ月」:死者・行方不明者は23,500人  避難所生活者は 90,000人

・この未曾有の大災害(震災+人災) 被災者へ・被災地へ何の手助けも出来ない非力な我には、今後もエンドレスに復興施策の誤りのない実施を見届ける義務がある。そして、この被災者の皆さん方の分も含む税金・善意の義援金の有効活用を見守り、時に、大声発して道を正す責務がある。と、「自身の胸に言い聞かせる日」にします。



 ・被災者の頑張る姿二題


東日本大震災:寄り添うボランティア 広がる笑顔
吉田千代子さん(左)方には、ボランティアと住民が集い、和やかな雰囲気だ。 大勢のボランティアが、がれきの撤去や泥かきに汗を流している。しかし、津波は住宅だけではなく、住民同士の結びつきまで押し流した。本格化しつつある東日本大震災からの復興の陰で、まだ多くの被災者が孤立感にさいなまれている。全国から駆けつけ、地元で立ち上がった有志たちは、彼らに寄り添い、新たな絆を生み出す取り組みを始めている。

 「柱しか残ってないかもしれない。でも茶わん一つでいいから持ち帰りたいの」
 今月初め、福島県いわき市内の避難所で、「被災者見守り隊」の佐藤裕子さん(44)に女性の被災者が訴えた。女性宅は福島第1原発半径20キロ圏内の警戒区域にあり、着の身着のままで転々と避難。一時帰宅で被害を直視することに不安を募らせていた。「自分がどうなっちゃうか分からない。ここに戻ったらまた来てくれる?」。佐藤さんがほほえんだ。「必ず来ます」

 被災者見守り隊は市内の避難所を回り被災者の相談相手となるボランティア組織。介護福祉士の佐藤さんがリーダーを務める。

 佐藤さんは勤務先の介護老人保健が被災して休職になり、当時専門職のボランティアを受け入れていた田村市に向かった。避難所に行くと現場は混乱し、誰からも指示がない。「何をすればいいのか」と考えたとき、家に戻れず寂しそうにしていた施設の高齢者の姿が浮かんだ。「とにかく話を聞こう」と決めた。

 いわき市に戻ってからも1人で避難所を回った。避難者は「お世話になっているから」と市職員には遠慮がちだ。食欲のない人や孤立している人に「体調はいかがですか」と声をかけた。世間話をするうちに、支援の必要な課題が浮かぶこともある。「先立つものがない」「ずっと子供と一緒で疲れ切った」。そんな話を聞いては行政につないだ。

 活動を知った看護師や僧侶、大学生が「一緒にやろう」と集まり、4月17日に見守り隊を発足させ、5〜6人が手弁当で駆け回る。

 95年の阪神大震災では、仮設住宅入居後の孤独死が相次いだ。いわき市で現在避難所にいる被災者はピーク時の約50分の1。地域ごとに生活していた人々が散り散りになっていく。

 被災者が入居する公営住宅を訪ねた時、偶然、避難所で会ったお年寄りに再会した。「ここは話し相手がいなくて、寂しいよ」。部屋にこもり、一人で泣くこともあるという。

 避難所がなくなっても、顔が見える支援をしたい。「これからが本番です」【門田陽介、渡辺諒】

 ◇おしゃべりに花咲かせ…人々の結びつき重視 
被災地の宮城県石巻市でも、人々の結びつきを強める試みを、ボランティアたちが支えている。

 「はあー。さっぱりしたよ」。風呂上がりの住民が、居間でおしゃべりに花を咲かせる。同市渡波(わたのは)のホームヘルパー、吉田千代子さん(52)が、自宅を「地域サロン」として開放した。津波を受けたが、給湯設備は奇跡的に無事だった。

 「お茶はいかがですか」。忙しい吉田さんに代わり、運営に当たるボランティアたちが風呂を沸かし、茶をいれ、話し相手になる。津波の記憶、家族の消息……。住民の話にひたすら相づちを打つ。「あいさつ程度だった近所の人とも、ここに来てよく話すようになったよ」。近くに住む女性(72)が明るい表情で言う。

 震災時、吉田さんは1人暮らしの高齢女性宅を訪問中だった。女性を背負って2階に避難して津波を逃れ、3日後に救出された。自宅は傾き、泥だらけで気持ちがふさぐ日々。自宅の片づけを手伝ってくれたボランティアたちに救われた。「彼らに力をもらい、自分にできることをしようと……」。泥かきが一段落したころ、風呂が使えない住民が多いと知り、自宅の提供を決めた。「東北関東大震災・共同支援ネットワーク」(仙台市青葉区)が毎日ボランティア数人を送り出し、日に約10人が利用する。

 ある日。仕事のない吉田さんが天ぷらを揚げ、振る舞った。自宅が被害を受け、近くのアパートに独居する南川鉄弥さん(85)は「家庭の音はいいねえ」。新たな絆が生まれ、笑顔が広がりつつある。【細川貴代】

毎日新聞 2011年6月10日 12時31分(最終更新 6月10日 13時06分)



津波被災地で田植え=「必ずよみがえる」−岩手・陸前高田

 東日本大震災津波にのまれた岩手県陸前高田市の水田で10日、田植えが行われた。明治・昭和三陸地震津波を乗り越えた水田約1ヘクタール。地元農家は「今度も負けるなよ」と復興への願いを込めた。
 同市広田地区の水田は、区画整理工事の完成直前、津波に襲われた。元の形が分からないほどの被害だったが、地元の営農組合は「明治と昭和の三陸津波でも実った田んぼ。必ずよみがえる」との思いで、津波が運んだごみを撤去。熱意に応えた整地業者も急ピッチで工事をやり直した。
 田植えができたのは予定の10分の1の面積。沢の水で3回水を入れ替えたが、塩分濃度は生育にぎりぎりの状態という。(2011/06/10-12:51)時事通信


・自分の力で立ち直りの為の何かを形作りたいと言う被災者の方は沢山います!

・プレハブの家を自分で建て、ライフラインも自力で調達、夫婦で暮らす人。

・テント暮らしで、毎日自分の家のあった場所を見守っている人。

・夫婦で半壊状態の我が家へ戻り、2階部分で暮らす夫婦、単身者。

・陸地に打ち上げられた船を修理して漁に出た人。


*現地を見てきた人は訴える、テレビその他で「復興・復旧」の兆しと報道されるが実際に自分の身の丈を越す様な「がれきの山」を目の当たりにすると、被災者の皆さんに頑張って下さいと励ましの言葉を掛ける気持ちさえ萎えてしまいそうになる。 と、・・・。 

「お金を持たない人は、どんな少額でも」、「力持ちでない人は、どんな小さな労働奉仕でも」、「金も力も無い人は、目と耳を働かせ声に出して」、全ての国民が自分の役割を見つけて支援し続ける必要がある!