「71才の365日」5月25日(水)晴れ10℃「東日本大震災」76日

(昨24日の事後記述です。女房殿に独房から引き出され、「スーパーさがみ屋」往復の運転手済み、後、16時過ぎでも朝トレです)

*朝トレ二日連続の時間ずれ雨:16時10分〜17時15分
体の欲求強い、足も軽い、でも1日の起点は朝、その日の体調診断するのにも朝トレが一番だと思う。もうこの時間だとこれが終われば・・・?が、飲める々と、お爺ちゃん気分が勝ちそうになる。

いつも思うのだがこのコース水はけという点では本当に上手くできている。しかも地表にはそこそこの砂も浮いてくるし足底に負担は多く掛からない。更に、少々の勾配が付いているのも我には好都合。上り勾配で強(走、歩行共に)、下り勾配でインターバルを、体調に合わせてメニューにもメリハリが付けられる。我が誂えたような贅沢なコースだ!

昨日も今日も、朝一でないと何かタイミングがしっくり来なかった、コースinの挨拶がもらえないからなのか?我れが「ホーホケキョ」と鳴いて(?)みたが直ぐには返礼無かった。でも昨日の昼休みよりは、早めの挨拶が返ってきた。もう一点書き留めることある。今日見てもやっぱり小振りのカラス、川原からゆっくり舞い上がったまでは良かったが、突然つがいの小鳥にまとわりつかれ急降下して行った。その後電線にも止まったが暫く羽をばたつかせていた。飛行訓練も、着木訓練も一人でやるんでしょうね? つがいは昨日今日と姿見せなかった。(この時男体山は雪があったのか?雲で見えず)



  5月25日
*本日は正真正銘の「朝トレ」です:6時〜7時50分(6時30分から中断あり)
玄関10℃(お、空気がまだ湿ってるな)堰堤階段上るとどうしても竹藪内雑木の高枝見上げるが、居ないな。朝露も多く空気冷たく感じる。10℃あるのに・・・ウエアーのゴムで絞ってある袖口から縮めた手指を引き込んだ冷たー。

コースまで誰も挨拶無し、倉井さん家の暖炉煙あり西風だ。棚引く薄煙がコース下り勾配へ向かって流れてる。二日ぶり正真正銘の朝トレコースに入る。ウグイスA君(彼も常連だから命名する)今日も律儀にご挨拶、一段と声が通るね、お早う御座います! 歩行1本目コースエンドでUターン、冷たさ覚悟してウエアーの両袖口から手指を出し、正面を見据えると、え、何、男体山が白い!え、え、4月19日遅い雪が町中にも降り積もり春の雪らしく直ぐ消えたが。男体山は、残雪が帯になり→紐になり→細い二筋が5月20日ににやっと消えたばかりだ! 我にはこの時期の雪は記憶無し、写真撮っておこうと考えながら走に入った時間帯、あごが上がって男体山を仰ぎ見ると、凧の足が消えて行ってる!
一応慌てて、家へ向けて走り出した。カメラを持って堰堤階段上り直すと、毎日プードルの散歩をさせてる「O」さんが頻りにデジカメのシャッター切っている。やっぱり珍しいんだ、我れも2〜3枚撮った。[大阪(箕面)の友からゴーヤの緑のカーテン送られる前に雪の男体山送ってやろう!] 本物のレプリカを送りっこ出来たら面白いのに!?こ後コースに戻ってからの特記なし。


慌ててカメラ取りに行った甲斐無し大阪の敏正殿ごめんなさい。雪だけ確認して下さい!


我がフィールドから望む男体山はロケーションが・・・ 本当はもっと美男子なんです。



*「東日本大震災」76日

*「大津波原発を読んで」 kangaelさんのブログを読ませてもらって (赤色字勝手にkenit3545です)

振り返ってみて、あの年のアレが21世紀の日本の分岐点だったと言えるような大転換が出来るかどうか・・・やってみたいですね。 (10年で何とか形だけでも出来ませんかね。是非立ち会いたいものと願っています) 



私もこの震災と原発事故が、日本人の右も左も、老人も若人も、政治的な考え方や世代を超えて日本人として一つになれる切っ掛けになればいいなぁと思います。いままで、必ず、意見が分かれる問題では二つの考え方が、まともに議論されて、何かよい結果が生み出されたという経験がありません。二つの意見は互いに相手を完璧に否定して、自らは「絶対」としてかえりみる事がありません。

 (勝手にkeniti3545 すいません)特に政治家は、科学者のように、医者の様に、行動と発言ができないものでしょうか? 学問を究めて、あるいはその途上で、絶えずその時点での真理を堂々と言葉にする。分からないことは分からないと言葉にすること。真理追求の途上で自身の納めた知識に加えることが出てきて、過去の経過を非としなければならない時も潔く正を摂る言動が出来ないのでしょうか。この、大原則を実行できない政治家は救いがたい。この手の集団がいくら議論してもkangaelさんの言っているような結果しか生まれないのでしょう。政治家の資質を変えるにはどうしたら良いのでしょう!誰か強烈な意見をお聞かせ願いませんか!


*明るいニュース:少々タイムラグありますが拾いました
2011年05月17日

宮城の種かき宮城県石巻市万石浦のカキ養殖業者が、再起への第一歩を踏み始めた…。ということが報道されました。
報道ステーションより
三陸「種ガキ」養殖、復活に向け再開
東日本大震災の被災地、宮城県石巻市万石浦のカキ養殖業者が、再起への第一歩を踏み出し始めている。内海だった万石浦では、津波の被害が比較的小さかったとされ、出荷目前だったカキの稚貝「種ガキ」の8割が生き残っていた。カキ養殖歴35年の横山俊昭さんは「これをやらなかったら、陸へ上がって今から仕事を探すといっても何もない。死ぬまで(カキ養殖を)やるしかない」と語る。横山さんが16日に引き上げた種ガキは、17日、大船渡市に出荷する予定だ。一方、各地のカキの養殖場では、三陸からの種ガキを待ちわびている。養殖カキの産地は北海道から広島まで19道府県に及ぶが、種ガキの8割が万石浦を含んだ宮城県三陸産だ。各地に運ばれた種ガキは、それぞれの海で養殖され、市場に出荷される。長崎県諫早湾でカキの養殖業を営む野田清一さんは、種ガキの100%近くを宮城県から仕入れている。野田さんたちは3月下旬、復興支援のためカキの販売会を開き、売り上げと募金合わせて50万円あまりを義援金として被災地に送った。また、1970年ごろ、フランス各地のカキにウイルスが蔓延した際、全滅の危機を救ったのも、宮城県から送られたカキだった。フランスでは今、再び病気が広がり、カキが死ぬ事態となっていて、日本への期待が膨らんでいる。

毎日jpより
東日本大震災万石浦の種ガキ、生き残っていた…宮城
東日本大震災で壊滅的被害を受けた宮城県沿岸部のカキ養殖業が、再起への歩みを始めた。全国のカキ産地に種ガキを送り、フランスのカキ危機も救った石巻市の内湾、万石浦(まんごくうら)の種ガキ(稚貝)が生き残っていたのだ。これをもとに、今夏から養殖業に欠かせない種ガキ育成が行われる。
「種が死滅したら終わりだった。ここであきらめちゃ駄目だってことだろう」。宮城県漁業協同組合石巻地区支所の亀山豪紀(ひでとし)支所長は言う。同支所では7支部のうち、牡鹿半島西南部などの6支部でカキ養殖場が全滅。被害は受けたものの何とか残ったのは万石浦内の沢田支部だけだった。
沢田地区のカキ養殖業、斉藤晃悦さん方ではホタテの貝殻に種ガキを植え付けた72枚セットの「ホタテ原盤」3000本のうち約半数が生き残った。これから母貝に成長させ、7〜8月に放卵する幼生を原盤に付着させて種ガキに育てる。
亀山支所長は「全滅した漁業者に種を届けるためには(放卵期の)この夏が勝負。ここから再出発だ」と語る。
山の滋養をたたえた天然の汽水域である万石浦は、世界のカキ王と呼ばれた沖縄出身の実業家、宮城新昌(しんしょう)氏(1884〜1967)が最適地として選んだカキ養殖発祥の地。種ガキは米国の西海岸に盛んに輸出され、1960年代にフランスでカキの病気が広がった際には“渡仏”もした。
フィリップ・フォール駐日仏大使は「フランスのカキを救ってくれた万石浦のカキが生き残り、大変喜んでいます。再生への取り組みには困難もあるかと思いますが、フランス人の大好物でもある最高のカキを育てていただきたい」と、再起を図る漁業者にエールを送っている。


*「種ガキ」が無事だった…すごいことだと感動し、とっても嬉しいです。
まだまだ厳しい状況ではあると思いますが、頑張って牡蠣の養殖を再開してほしいです。