「keniti3545」since73:9月20日れ16℃「東日本大震災」「311フクシマ」925日 今日の一題「年縞:日本人が造る歴史の物差し」が世界を席巻!

*朝トレ:自分の為だけの炊事洗濯ゴミ出しお使い風呂掃除、これに負けそういくじね〜の! 結局カラスの顔見にも行けず洗濯物干しながら、蚊の鳴くような声で「原発要らないよ〜」「再稼働反対」「原発売る等とバカは止めろ」! 今日は金曜日! デモ参加の皆さんに恥ずかしいけど感謝です! 


*「東日本大震災」「311フクシマ」925日


*今日の一題 『日本人が造る”れきしのものさし”』だ! 年輪でも光年でもない。 「竹に刻んだ目盛りとそろばん玉」の合体が造り出す計算機(コンピューター)が地球の歴史を解き明かす! 原発売り歩くアベノミクスさんもそ「ろばん玉造り、竹の物差し造りでも手伝った方が」よっぽどお国の生産性が上がりますよ〜!。


日経ビジネス:シリーズ「水月湖で年縞を読み解く」 

  山根一眞のポスト3・11 日本の力


日本の「水月湖」が世界の歴史のものさしに>!


「年縞」を読み解いた在英日本人研究者「その1」2013.8.20

(1) 日本の科学技術は欧米の後を追っているだけ、という論が根強い。開発者や研究者ばかりか経営者の目が国内にばかり向いてきたことが、グローバル化の波に打ちのめされ「日本力」を脆弱なものにしているという意見も多い。世界を熱くさせている「日本発の世界標準」を手にした英国在住の日本人科学者のプロジェクトは、成果を手にする「日本力」のありようとは何かを教えてくれている。歴史の教科書が書き換えられる大事件
 パリ、ユネスコ本部。

 エッフェル塔があるシャン・ド・マルス公園は東南方向へおよそ1キロ続く細長い緑地だ。その東南端から300メートル先のフォントノア広場に国連のユネスコ本部がある

 2012年7月9日から5日間、このユネスコ本部で開催された「第21回国際放射性炭素会議・パリ2012」(国際放射性炭素学会とユネスコの共催)で、「日本はすごいぞ!」と叫びたくなる決定が下された

 福井県若狭町水月湖の「年縞」が世界の歴史の「標準時」となった

 「世界時間」はロンドンの天文台があるグリニッジを標準とするが、「水月湖」は今後、考古学や地質学、地球の環境の推移を知る「歴史の標準時」として欠かせない「ものさし」になったのだ。ーー後略ーー



(2)湖沼の底に残された“年輪”

 「年縞」(ねんこう)。聞き慣れない言葉だ。

 樹木の「年輪」は、その輪の縞の1本が1年を意味していることはだれでも知っている。年輪の数を数えれば「樹齢」がわかる。夏は木の生長が早く、冬は生長が遅い。年輪のひとつひとつの幅を調べれば、夏や冬の長さもわかる


福井県若狭町で見た樹木の断面に残る年輪。この樹木は、縞の数から「樹齢」およそ25年のようだ。樹木の「年輪」は「歴史時代」の標準時として使われてきた。だが、この研究を進めてきた欧州では1万4700年より以前は氷河期で樹木がないため、それ以前の標準時は「年縞」の出番になる。(写真:山根一眞



この「年輪」に相当する「縞」は、湖沼の底の泥層にも残されている

 周囲から大きな水の流入などがほとんどない、静かな、そして深い湖沼の底には、さまざまなモノが、そっとそっと降り積もっている

 「縞」は、植物の葉や花粉、植物プランクトンの死骸(殻)、周囲の山が浸食され流れこんだ土壌、湖水に含まれる鉱物質、火山噴火による火山灰、飛来した黄砂などからなる。津波が運ぶ砂が混じることも。それらが作る1年分の「縞」の数を上から勘定していけば、正確な「年」がわかるのださらに縞を詳しく読み解けば、その時代に何があったのかもわかる

 この泥の縞を「年縞」(varve)と呼ぶ

 その「年縞」が数万年にわたって連続して残っている湖沼は世界でもごくわずか。その、理想的な場所が日本にあったのである



(3)福井県若狭町。人口約1万6000人。人口密度は1平方キロあたり87.7人と、東京23区のおよそ160分の1というゆるりとしたこの町を象徴するのが、とても美しい5つの湖からなる三方五湖だ。5つの湖を囲む低い山々をつなぐ道路、レインボーラインを走ると、それらの湖、日向湖(ひるがこ)、久々子湖(くぐしこ)、菅湖(すがこ)、三方湖(みかたこ)、そして最大の面積の水月湖(すいげつこ)を見ることができる


縄文人の生涯の1年1年がわかる
 水月湖」の名を知る日本人は少ない。とりわけ北陸、近畿圏以外での知名度は低い

 だが、「水月湖」をグーグルで”Lake Suigetsu”と英文検索すると、じつに8万2100件がヒットする(2013年8月)。日本でもっとも深い湖、知らぬ日本人がいない秋田県田沢湖(”Lake Tazawa”)ですら7万件におよばないのだから、面積わずか4.16平方キロ、周囲9.6キロのこの水月湖に、世界がいかに熱い目を向けているかがわかる

 水月湖が世界の歴史の記述を大きく変えるとされているからなのだ

三方五湖は周囲をめぐる有料道路、三方五湖レインボーライン(11.24km)の何カ所かの展望台から望むことができる。知られざる名勝地だ。2013年3月23日撮影。(写真:山根一眞

 2013年3月、若狭町立若狭三方縄文博物館で始まったばかりの「水月湖年縞パネル展〜湖のしましまからわかること〜」を訪ねたとき、学芸員の小島秀彰さんは、水月湖のボーリングで得た柱状サンプルの一部を樹脂固定したものを指しながら、興奮気味にこう語っていた。

 水月湖の年縞によって、ある縄文人の生涯のすべて、1年1年に何があったかもわかるようになったんです、すごいことでしょう」
 確かに、すごいことになった!



(4)水月湖の「年縞」は、同じ条件で同じ場所で、きれいに連続した「年縞」が、1年刻みで7万年分も残っていたのだ

 これが、水月湖の「年縞」を歴史の「ものさし」とすることになったゆえんだ。こんな場所は世界のどこにもない。世界が「水月湖の奇跡」と呼ぶのは当然のことだ

水月湖の断面図。三方断層によって少しずつ湖底が沈み続けてきたため、水深が深く、また湖底の堆積泥層も厚く保存されてきた。2006年のボーリングで得た「年縞」は73m。1年が0.7mmとすれば10万年を超える計算だが、下部の地層は圧縮されているため基盤層はさらに古い15万年前であることがわかっている。(図:若狭三方縄文博物館提供の元図をもとに山根が作成)

縞の1本1本に膨大な情報

 では、これが世界の歴史の「モノサシ」になるとは、どういうことか

 世界のどこかで発掘された遺物の「炭素14」の量がわかったとする。その値が水月湖の「年縞」の、どの縞の「炭素14」と一致するかを調べる。その縞が上から何本目の縞かを勘定すれば、「年」がわかる。たとえば、「4万5834年前だ」と(誤差は±0.25%という正確さで)。
 「年縞」からは「何年前」かを知ることができるだけでなく、縞の1本には「年輪」同様に、いや年輪以上に膨大なその年、その時の情報が詰まっている

 1年分の幅はおよそ0.7〜0.8mmにすぎないが、この縞の中には、この年の春、梅雨、夏、秋、晩秋、冬とそれぞれ季節によって異なる堆積物が堆積しており、それぞれの分析から当時の地域の、世界の環境までもがありありと読みとれる。
 その縞の情報をすべて読みとれば、過去7万年の環境の変化が、1年刻みで明らかになる(とてつもなく大変な仕事になるが)。

1年分の「年縞」0.7〜0.8mmには、四季折々の堆積物が詰まっている。それぞれの生物死骸や物質を調べることでこの年の環境を読み出すことができる。(図:ゴードン・シュロラウト氏提供の図を山根が改変)


(5)6年かけて年縞を分析
 2013年7月15日、三方五湖の湖畔、若狭町立若狭縄文博物館の向いにある福井県三方五湖青年の家のホールで、「水月湖年縞世界へ発信〜水月湖年縞研究発表会〜」が開催された(主催、福井県安全環境部自然環境課、若狭三方縄文博物館)。水月湖の年縞」の研究発表者は、一時帰国中の英国ニューカッスル大学教授中川毅(たけし)さんだ

 中川さんをリーダーとする英日独の3カ国のチームは、2006年の7〜8月に水月湖でボーリングを行い、およそ73メートルの完全な「年縞」の掘削採取に成功した。それら73メートル分の「年縞」は英国に運ばれ、多くのスペシャリストたちとともに6年かけて分析、整理が行われた

 その成果が、パリでの「世界標準認定」につながったのである

 7月15日の研究発表会では中川さんと私の公開対談が実現、私はさらに京都や東京で中川さんに長時間のインタビューも続けてきた。


 中川さんは、どのようにして水月湖の「年縞」に着目したのか、その分析はどのように進めたのか、水月湖の「年縞」は今後、どのような意味を持つようになるのか。何よりも、なぜ中川さんは英国の大学に在籍しながら、日本の水月湖の「年縞」プロジェクトを進めてきたのかを知りたかった

 中川毅さんは、1968年(昭和43年)11月16日、東京に生まれた。父は、肺がんの権威で、がん研有明病院長もつとめた中川健さん(現・名誉院長)である。周囲からは当然医師を目指すだろうと言われていたにもかかわらず、1988年(昭和63年)に京都大学理学部へ進む。子ども時代から、古生物に大きな興味を抱いていたからだった


(6)小学生時代からぶれない生態学への思い

 「小学生時代の本棚には恐竜の本ばかりが並んでいました。『大むかしの動物 』(学研の図鑑、監修・大森昌衛、1972年刊)は、暗記するほど読みましたし、『化石のひみつ 地球や生物のなぞをとく』(学研まんが・ひみつシリーズ、漫画・川崎てつお、監修・小畠郁生、1975年刊)も大好きな本でした」
 『大むかしの動物 』の監修者、大森昌衛さんは日本地質学会会長も務めた古生物学者だが、野尻湖の発掘調査団長でもあった。この図鑑を介して、野尻湖から水月湖への知の連鎖がつづいたことになる

 余談になるが、私も少年時代には化石に熱中していた。『化石のひみつ』の監修者、小畠郁生さんは国立科学博物館に在職していた白亜紀の古生物学の権威だが、子ども時代、その国立科学博物館での小畠さんの公開講義に通っている。こういう体験が生涯を通じて科学技術への関心を深めることなった

 「東京学芸大学附属小金井中学校在学中は、当時の生物の先生、橋上一彦先生が指導する生態クラブに所属、多摩川の水質を、上流から下流まで水生生物をもとに調査をしたことからも大きな影響を受け、生態学を目指すことにしたんです

 この中学生による水質調査データは、東京都水道局にとっても貴重なものだったという

 京都大学では生態学の権威である川那部浩哉教授(現・名誉教授)やこの分野のヒーローである日高敏輶教授(動物行動学、2009年没)が活躍していた時代だった

僕は、長い時間スケールで環境系をみたいと思うようになったんです。恐竜の時代と絶滅に関心を抱いていたこともあり、化石記録を使い長いスケールでの気候変動や生態系の変化をとらえたいという思いが大きくなって

 小学生時代からぶれることのない思いが、歴史の「世界標準」を手にすることにつながったのである

 子ども時代の読書、少年時代のフィールド体験はいかに大事かスマホやゲームばかりで遊ばせちゃいけないのだ。



http://business.nikkeibp.co.jp/article/tech/20130819/252353/?leaf_ra 



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<日英で表彰、「水月湖」に世界から熱い視線>

「年縞」を読み解いた在英日本人研究者「その2」山根 一眞 2013年8月22日(木)<山根 一眞 ノンフィクション作家、 作家として先端科学技術分野の熱い人間像を描き続ける一方、3.11被災地支援活動も人生の大きな柱です>。


(1)世界の歴史の「ものさし」の標準とする決定が下された、水月湖の「年縞」

 福井県若狭町三方五湖のひとつ、水月湖の湖底から2006年の夏に得た約73メートルの堆積土には、1年あたり0.7〜0.8ミリの厚さの「縞」が、連続して7万年分残っていた。この「水月湖の年縞」に世界の熱い目がそそがれている。


(2)大和エイドリアン賞受賞の知らせがあった6日後には、NHK総合テレビの「ニュースウオッチ9」がこの水月湖の「年縞」プロジェクトを紹介した(この日、私は中川さんと会っていたのだが)。9分間というニュース番組では大きな扱いには驚いた。

 ちなみにNHKは2013年2月3日に「サイエンスZERO」という番組で「湖に眠る奇跡の堆積物」として中川さんのプロジェクトをとりあげているが、その視聴率はiPS細胞の山中伸弥教授をとりあげた時と同じだったという 「年縞」への関心の高さを物語る


(3)「去年までは何とか『年縞』を広くアピールしようとしてきたんですが、まったく手応えがなかったんです。それが、ここのところ一気に……」(中川さん)
 中川さんは、2006年(平成18年)の第2次水月湖調査から6年かけて取り組んで得た成果の大きさをあらためて噛みしめている

 その“Lake Suigetsu”のプロジェクトを進めてきた中川毅さんの歩みをふりかえる。


(4) 福井県若狭町には、非常に保存状態がよい縄文遺跡「鳥浜貝塚」がある。

 1万2000年〜5000年前(縄文前期)の遺跡で、大型の丸木船や当時の縄文人の道具など膨大な数の遺物が出土しており、約1400点が国の重要文化財に指定されている。ここは1970年代〜1980年代から縄文研究の中心として大きな話題を集め、若狭町立若狭三方縄文博物館は、それら出土品の保存、展示、そして研究を目的に2000年(平成12年)4月に開館、梅原猛さんを名誉館長に迎えている。ーー略ーー

ーー 中川さんは安田さんの指導のもとに1991年の第一次水月湖の調査に学生として参加、湖底の泥に含まれる「花粉の水平分布」の研究が京都大学での卒論となった


(5) 前略ーー フランス最古の湖沼底の堆積土壌の花粉化石を手がかりに、過去40万年の気候変動の解明に取り組んできた第一人者だ。中川さんは1995年(平成7年)から3年間、ここで学び学位を得る。学位論文はフランスのアルプス山脈の気候変動と環境考古学がテーマだった

 「当時、フランスで学位を取るためには論文をフランス語で書き、ディフェンス(口頭試験)もフランス語でしなくてはいけなかったんです。それがわかっていたら留学しなかったのにと、留学して1年くらいは泣きたくなる思いでした」

 だが、ディフェンスの頃にはフランス語も身について、むしろ厳しい質問にもノリノリで答えたようだ。ーー後略


(6)植物の生育環境をもっともよく反映する花粉としてマツ、コナラ、シラカバ、ヤナギ、ハンノキ、モミ、スギなど32種を選び、日本全国からそのデータを集めたが、それは、博士課程の学生だった五反田克也さん(現・千葉商科大学准教授)にまかせた。五反田さんは、中川さんとロシア人研究者の指導のもとにこの仕事を進めた。データベースが完成してからは、中川さんは花粉から気候を知る方法を五反田さんは花粉からその植物のあった森の景観を復元する方法を開発した

 花粉をきちんと解釈する準備をして水月湖調査へ
 中川さんは、それらのデータをもとに独自にデータ解析の理論とソフトウェアを創りあげ、五反田さんともに2002年(平成14年)に科学雑誌『QSR』(Quaternary Science Reviews)に論文を発表する。

 「こういう科学論文では、カラー図版の掲載を希望すればその経費を研究者が負担しなくてはならないんです。しかし、『QSR』の編集者は僕たちの論文を非常に気に入ってくれて、五反田くんの論文も、数カ月遅れて出した僕の論文も、カラー図版の印刷代をタダにしてくれたんで。それは、もしかしたら、この分野で国際的に生きていけるかも知れないと思った瞬間でした」
 この論文は中川さんの出世作になったと同時に、水月湖の花粉をきちんと解釈するための地ならしの意味もあった。

 「そこまでの準備をしたうえで水月湖の新たな『年縞』研究にとりかかったんです」ーー略ーー 一時、水月湖に背を向けてフランスでこの業界の武者修行をしたからこそ、2006年(平成18年)の水月湖の「年縞」ボーリング(第二次調査)を成功させることができた

 その第二次調査には、日本のみならず数カ国の研究者が参加したのだが、資金不足から大変な日々を味わうことになる



http://business.nikkeibp.co.jp/article/tech/20130819/252391/?n_cid=nbpnbo_leaf_bn



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<いよいよ水月湖を掘削へ、研究者たちの貧しく暑い夏>

「年縞」を読み解いた在英日本人研究者「その3」山根 一眞 2013年9月12日(木)


(1) 世界の歴史の「ものさし」の標準とする決定が下された、水月湖の「年縞」に世界の熱い目がそそがれている

失敗できない2回目の掘削
 2006年(平成18年)6月30日の朝、水月湖畔に荷物を満載した大型のトラックや25トン吊りのクレーン車が到着した。ボディには佐世保通運の文字。水月湖の「年縞」の湖底掘削のために必要な資材が、はるばる長崎県から運ばれてきたのである。
 水月湖の「年縞」の掘削は、1991年(平成3年)に始まっている。安田喜憲さん(現・国際日本文化研究センター名誉教授)がこの年に試掘を行い、1993年(平成5年)に本格的な掘削を行ったが、これまでの掘削では完全な「年縞」は得られていなかった1993年の掘削に京都大学の学生として参加した中川毅さん(現・英国ニューカッスル大学教授)は、じつに13年目のリベンジとして、第2次調査のプロジェクトのリーダーとして「年縞」の掘削に挑むのである。ーー後略ーー


(2)安田さんによる第1回の掘削後、中川さんはフランスのエクス=マルセイユ第三大学に留学し学位を取得。1998年(平成10年)に帰国後、日本文化研究センター(日文研)のポスドク(任期制の博士研究員)となり、のち3年時限の助手となった。日文研では、安田研究室の助手だった北川浩之さん(現・名古屋大学教授)と水月湖の「年縞」の分析に取り組む

「北川さんはすごい人で、1994年(平成6年)から4年をかけて水月湖の縞数えと葉の化石に含まれる炭素の放射性同位体炭素14)の測定を1人ですべてこなし、1998年(平成10年)に科学誌『サイエンス』に発表しています北川さんは年代測定が専門で僕は花粉分析が専門です。彼が年代を決めてくれたおかげで、僕の花粉の仕事も面白くなったんです」。

 スターになれると思ったら職を失ってしまう
 日文研の助手の最終年度、中川さんは2002年(平成14年)から10カ月間、文部科学省の在外研究生としてロンドン大学ロイヤルホロウェイ校に行く。水月湖の花粉の研究はロンドンでも続け、その成果を2003年(平成15年)1月に『サイエンス』に投稿し掲載された。その直後にニューカッスル大学で開催された学会でも発表している。ーー後略ーー


(3)その中川さんを救ってくれたのが、大分県別府市にある京都大学大学院理学研究科附属地球熱学研究施設の教授、竹村恵二さんだった。ところがポスドクとして赴任し論文の執筆を始めた半月後、会ったことのないイギリス人からメールが届いた。ニューカッスル大学のダレル・マディー博士からだった。最年少記録でニューカッスル大学の教授に
「『うちの大学で今度レクチャラー(講師)の公募があるので応募してはどうか』という内容でした。そこで応募書類を送ったところ、5月になって『最終選考に残ったからイギリスに来い』と

 しかし渡英費用などなかった。「ごめんなさい!お金がないのであきらめます」と返信すると、「費用は大学が全額出す」という。のちに、イギリスではそれがスタンダードなのだと知る。人事は研究機関にとって重要なことなので優れた人材を採用するためには費用を惜しまないのだという

 2003年6月24日、ニューカッスル大学で、レクチャラーに公募した3人がプレゼンテーションを行ったが、当日に中川さんのみが採用と決まった

「マディー博士は空港まで送ってくれたんですが、彼と別れて空港のバーで飛行機待ちの間、ビールを飲みながら涙が出ました」

(4)水月湖」の研究はきわめて高いポテンシャルがある。これほどおいしい課題を日本が放っておくとは信じられない。よって、日本人とはいえイギリスに拠点をもつ研究者が水月湖の研究をすれば、日本との関係が悪くなることがあり得る

 これは、水月湖の大きな価値を世界が認識していたことを物語っている

 2005年(平成17年)、中川さんは再度、このグラントに応募する。もっとも、それには前年の評価を覆すため、日本側が大いに賛同しているという書類を添付する必要があった。

ようやく1000万円の予算を確保
「それで、安田先生に、『日本社会はこの件に関してハッピーである』という推薦状を書いて下さいとお願いしました。安田先生の返答はOKでしたが、『君が代筆しなさい』と。そこで私が安田先生になりきって『この研究計画を日本は全面的に応援をする』という作文をし、漢字でサインをして提出したんです」
 応募は通り、5万ポンド(当時のレートで約1000万円)が確保できたのである。

当時1ポンドが210円だったんです。2008年(平成20年)にはリーマンショックで150円以下に落ちたので、もう2年遅かったらアウトでした

 とはいえ、水月湖の「年縞」のボーリングはとても1000万円の予算ではできない。ーー後略ーー


(5)残った予算は数十万円

 その地質調査会社が西部試錐工業なのである。「今回だけ」という条件で900万円台で引き受けてくれたのである。赤字覚悟だったという。西部試錐工業の本社は長崎県大村湾に面する時津町にあり、1988年(昭和63年)に設立された陸上、海上地質調査会社できわめて高度の技術をもつ。掘削作業は、社長の北村篤実さん自らが陣頭指揮をとってくれることになった。2006年6月30日。

 水月湖畔には、中川さんを筆頭に国内外から多くの研究者が集まり、国際プロジェクトとして「年縞」のボーリングと標本整理の作業が開始された。

 だが、残った手持ち資金は30万〜40万円のみ。この資金で信じがたいほど貧しい真夏の作業を続けることになる




http://business.nikkeibp.co.jp/article/tech/20130909/253151/?n_cid=nbpnbo_leaf_bn



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<7万年分の「地球の記録」を引き揚げる>

 「年縞」を読み解いた在英日本人研究者「その4」山根 一眞 2013年9月20日(金)


(1)
 2004年、ニューカッスル大学地理学教室の講師(当時)に採用された中川毅さんは、その翌年、水月湖福井県三方郡若狭町)の「年縞」をボーリングするためのグラント(科学研究費補助金)、およそ1000万円(当時)を獲得した。

ニューカッスル大学教授、中川毅さん。同大学はロンドンから電車でおよそ3時間、スコットランドに近い人口26万人の都市、ニューカッスル市にある。学生数3万1000人の名門校だ(写真:山根一眞
 2006年(平成18年)7月1日、後に世界の歴史を書き換えるほどの成果を得ることになる、水月湖の第2次調査が始まった。完璧な「年縞」を得ることを目指す

 作業は、まず水月湖上に巨大な発泡スチロールをベースにした「フロート台船」を浮かせ、その上にヤグラを組むことから開始した。この作業は、西部試錐工業(本社、長崎県)の社長、北村篤実さんの指揮のもとで進められた。

水月湖の「年縞」を得るための作業は、「フロート台船」上にヤグラを立て、直径7.8センチ、長さ1メートル(2メートルも若干使う)の鉄パイプを次々に水中に下ろし湖底の泥の層にポンプの水圧で貫入して行った。これを引き揚げるとパイプ内に堆積泥(コア)が詰まっているので、それを押し出して保存する(写真提供:中川毅・Suigetsu Varves 2006 project)
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「コア引き抜き」の難も克服
 このボーリング作業では、一気に湖底から基盤層までのコアを得るわけではない1回目、2回目と、少しずつ深い部分の堆積土を得ていくのである1回目と2回目の貫入の深さは重なる部分があるように進める。たとえば、「1.0〜2.0メートル」の次は「1.5〜2.5メートル」というように後にこれらオーバーラップ部分を重ねていくことで、年代の途切れがない長い「連続」したコア、「年縞」を得ようというのだ

 1993年(平成5年)の第1次調査では、1回のボーリングには1メートルのパイプを使っていたが、効率が悪いため今回は2メートルのパイプを併用することにしただが、堆積層に入れた泥の引き抜きがうまくいかなかったため、技術的な改良が必要だった

 2013年7月、若狭町で会った中川さんは鞄の中から真ちゅう製の手回し式の小型遠心分離器を出して見せてくれたが、これは「自作」したのだという。少年時代から工作が得意だった中川さんならではの技だが、ボーリングのコア引き抜きの技術課題も西部試錐工業とともに解決を見いだしていたのだ。


(2)ボーリング作業は1カ月以上かかることが予想されたので、宿泊施設の確保は大きな課題だった

 湖畔では、今年の7月、「水月湖年縞世界標準決定祝賀会」が開催された「観光ホテル水月花」という近代的なホテルもあるが、ここに1カ月以上投宿する資金などなかった。三方五湖には民宿も多いが、手持ち資金はもはや30万〜40万円のみで、その利用も不可能だ

 となると空き家を借りるしかない。ここは梅干の有数の産地で、梅干で有名な和歌山へもここの梅の一部が供給されているという。三方五湖畔はぐるりとその梅の木がとりまいているばかりで、数軒の観光土産物店のほかには農家のみだ。観光ホテル水月花からは一番近いコンビニエンスストアまで往復20キロというほど、人家もまばらだ

水月湖を取り囲むように栽培されている梅の木。2013年3月に訪れた時は梅の花が咲き乱れていた。(写真・山根一眞) 右・2006年の水月湖第2次調査のチームが漬けた梅酒。中川さんが心にひめている「ある会心の成果」が出た時にメンバー全員で飲む計画なのだという(写真提供:中川毅・Suigetsu Varves 2006 project)
家賃1万5000円の「水月ヒルトン」

 「そこで、ボーリング開始半年前の1月、日本に一時帰国した時に若狭町の若狭三方縄文博物館を訪ね、当時の副館長、田辺常博さんに空き家を探してもらったんです。紹介してもらったのは2軒。1軒はタダでいいというんですが、窓ガラスは割れているし蔦が家の中に入り込んでいる廃屋でした。もう1軒は家賃が月1万5000円でした」

 水月湖畔の「もう1軒」の小さな木造住宅はかつて交番だったが、当時は地元の中小企業の新人研修所だった。水月湖の氾濫で水浸しになったこともあり傷みもひどかったが、ここを宿泊場所に借りることにした

 寝具は、若狭三方縄文博物館の倉庫に縄文遺跡の学術発掘隊が残していったものがあるというのでこれも借りることにした。クーラーがあったのは幸いだったが、風呂はシャワーのみ。風呂場にはときおりナメクジがはっていて、トイレはくみ取り式の「ぽっちゃん」だ(糞尿だまりを見下ろしながら用便するトイレはかつて「日本標準」だった)。炊飯器、掃除機、テレビなどは、友人たちに「貸してほしい」というメールを送り確保した

 中川さんは、ここを世界60カ国、2400以上に店舗をもつホテルチェーン「ヒルトン」の名をとって「水月ヒルトン」と命名した。ボーリング調査が始まって3週間目に若狭町が慰労会をしてくれた際、町長から「どこに泊まっているんですか」と聞かれ、元の交番のあった家だと答えると、「あんな所に人が住めるのか!」と、びっくりされたというエピソードが残っている

これが家賃1万5000円で確保した「水月ヒルトン」とその内部。外壁の下の方が浸水で変色していた。台所にある調理用品など家財道具一式は、京都の友人たちから借り、調査隊自らライトバン(1カ月6万円のリース)で運び込んだという(写真提供:中川毅・Suigetsu Varves 2006 project)

























(3)西部試錐工業のチームは若狭町世久見(せくみ)海水浴場近くの民宿に投宿した

「彼らはプロですから持続可能な生活環境を選びますが、僕たちはお金がないし、人生一度きりだからとあきらめて……」

 湖底からボーリングで得たコア入りの鉄パイプはモーターボートで湖畔に運び、すぐにコアの泥を抜き出し、ラベル付けや写真撮影、保存処理などをしなくてはならない。その作業場は、ホテル水月花に近い若狭町所有の駐車場の一角を借り、やはり若狭町から借りたテントを張って設営した。だが、少なくとも風が避けられる場所が必要とわかり、作業開始後2週間目に小さなプレハブ小屋を追加している


上・湖畔の若狭町所有の駐車場の一角に設営したテント作業場。下・なけなしの3万円で追加したエアコンのないプレハブ「特等室」(写真提供:中川毅・Suigetsu Varves 2006 project)



「年縞」研究の精鋭集まる
 こんな臨時の極貧の研究環境だったが、「年縞」研究の精鋭が集まってくれた

 まず、西部試錐工業を紹介してくれた大阪市立大学の原口強さんは事前に水月湖の地盤調査を行いボーリングに最適な場所を見いだしてくれたほか、原口研究室の学生の西川泰平さんを派遣してくれた中川さんと同世代の気候変動の研究者、東京大学理学部の横山祐典さん(現・東京大学大気海洋研究所准教授)も、学生の池田悟さんを派遣東京大学大学院大学院理学系(地球惑星科学)教授、多田隆治さんも学生の堀内大嗣さんを送り込んでくれている

 これら3人の学生の指導役は、中川さんの京都大学の後輩でともに花粉のデータベースを構築した五反田克也さん(現・千葉商科大学准教授)が引き受けてくれた。年輪年代学や古気候学が専門の鳴門教育大学准教授、米延仁志さんはチームの大きな支えだった。米延さんはその後、文科省の新領域学術研究「環太平洋の文明史研究」プロジェクトの立ち上げ中心メンバーになり、日本の年縞研究のリーダーになっている。

 ドイツからは、ポツダム地質学研究所教授で年縞研究のエキスパート、アヒム・ブラウアーさんが参加している。中川さんのフランス留学時代に同じポスドクとして留学していた友人だが、「年縞」の調査、ボーリングの進め方について欠かせない助言をしてくれた

 中川さんは、イギリスから女子学生も呼んでいる。ニューカッスル大学では、「中川年縞プロジェクト」の発足後、このプロジェクトのために奨学金つきの学生ポストを設けてくれたのだが、彼女はそれに応募して合格。秋からニューカッスル大学の博士課程に入学する予定だったが、当時はまだロンドン大学修士生だった

 「彼女は『水月ヒルトン』に1週間滞在したんですが、それがトラウマになったんでしょう、結局、ニューカッスル大学への入学を辞退してしまいました

 ちなみにポツダム地質学研究所のブラウアーさんも1週間のみだが「水月ヒルトン」に投宿し、「ファンタスティック!」と言ってくれたという。女子学生は、ぽっちゃんトイレやナメクジのバスルーム、枕を並べて畳の部屋で寝る「水月ヒルトン」に大きなカルチャーショックを受けたのだろう

水月ヒルトン」に投宿し、もの珍しそうにカメラを構えるポツダム地質学研究所のアヒム・ブラウアーさん。夜はテレビで7月9日までドイツで開催されたFIFAワールドカップに熱中。ふすまの下部の変色は洪水の跡だ(写真提供:中川毅・Suigetsu Varves 2006 project)









(4)ボーリングで得たコアは湖上の台船からモーターボートで湖畔に運び、テント施設とプレハブの作業場ですばやい処理を続けた。


狙った深さをボーリングし引き揚げた鉄のパイプから粘土状の堆積土、細長い円柱状のコアを押し出し樹脂製のトイのようなものにそっとのせる(この部分写真無し)

堆積土は、鉄パイプから抜き出す際にワイヤーでトコロテン式に半割りにする。こうして露出した切断面を、さらに包丁でそぐように削ると美しい「年縞」が姿を現す(写真提供:中川毅・Suigetsu Varves 2006 project)

 コアの泥は数万年ぶりに空気に触れるためたちまち酸化が進み変色する。そのため写真撮影や色の測定などの作業を手早く行ったのち、さまざまな分析用に切り分けた。分割したコアは乾燥を防ぐためサランラップでくるみ、さらにビニール袋の原料であるレイフラットチューブで密封、保存した。レイフラットチューブに黒の厚手のものを選んだのは、堆積土の表面で藻類が光合成を始めないよう光を遮断するためだった。

サランラップやレイフラットチューブでのコアの密封作業(写真提供:中川毅・Suigetsu Varves 2006 project)
魚と同じ4℃で冷蔵保存

 また、コアに含まれる有機物やバクテリアから当時の環境を分析する研究者のために、それらの状態を壊さずに持ち帰るため冷蔵保存する必要があった

 その冷蔵保存はどうするか……。

 五反田さんがあちこち駆け回った末に、クルマで約20分、日本海沿いにある福井県漁業協同組合連合会早瀬支所の冷蔵庫の一角を1万5000円で借りる契約をとりつけてくれた摂氏0度以下の「冷凍」保存では細胞内の水が氷結し堆積物の粒子の配列を変えてしまうため「冷蔵」でなければならない。この冷蔵庫の温度は「摂氏4度」。「年縞」のコアに求められる保存温度は、魚のおいしさを保つ温度と同じなのである

 作業が始まってから早瀬漁業は、しばしば新鮮な魚の差し入れで貧しい研究チームを支えてくれた。また、近隣のオバちゃんたちのありがたい差し入れにチームは感激した

 夜には、地元名産の梅酒や紙パック入りの芋焼酎、差し入れのビールなどを酌み交わしながら議論を続けた

 こうして108本、72メートル分の連続したコアを手にすることができた


(5)若狭町のインクを買い占め
 コアの断面の「年縞」は、一眼デジカメ、ニコンD70S(610万画素)で撮影。1メートルのコアは3コマに、2メートルでは6コマにわけて撮影し、合計約500枚の画像を得た。撮影では自然光のもとでは天候などによって色が変わるのでストロボを使いたかったが、資金の余裕がなかった。そこで色見本を写し込み、またミノルタ製の色彩計で10センチおきに色の測定データを記録してしのいだ

 途中、台風が接近した時は若狭三方縄文博物館の倉庫を間借りしたこともあった

 この一眼デジカメとインクジェットプリンタは、京都大学教授の、竹村恵二さんが寄付してくれた。渡英前、失業状態の中川さんを助けてくれた大学院理学研究科附属地球熱学研究施設の教授だ。

 「この500枚分のデジカメ写真データを、すべてA4サイズにプリントしました。でも500枚も印刷しなくてはならないのでインクがすぐなくなってしまうわけです。そこで、若狭町界隈の文房具店、ホームセンターなどを探し歩いては買い集めたので、僕らが使っていたプリンタ用のインクカートリッジは若狭町の全売場でゼロになったほどでしたよ」

(6)、(7)嬉しいというより、疲れ切っていた


上:「年縞」のオーバーラップ部分の確認は、このように縞の色あいや厚さなどで確認していった。下:1回2メートルのコアをボーリングするが図の右のように欠けている部分がどうしても出る。そこで、2回目のボーリングで得たコア(これにも欠けがあるが)から、先の欠損部分を補っていった。この欠けている部分を補完するためボーリングは4回行っている(図版作成:山根一眞

こうして、1年の抜けもなく7万年分の「完全に連続した年縞」が手にできた。最後のコアの分割と梱包が終わったのは2006年8月11日の夜7時過ぎのことだ。1993年の第1次調査からじつに13年目にして手にした成果だった。

嬉しいというより、疲れ切っていた
 「すべての作業を終えた時の感慨は、正直なところよく覚えていないです。嬉しいというより、疲れ切っていましたから。でも、僕をイギリスに呼んでくれたマディー博士、掘削資金を提供してくれたイギリス政府、成功する保証もないのに全面的に協力してくれた仲間たち、そういう皆さんの期待を裏切らずに第一段階をなしとげたという気持ちだけは、ものすごく大きかったです」
 ボーリングで得たコアは、まだ単なる土でしかない。これからは、それをきちんと分析する重要な仕事が待っている。そのことが頭にあったため、「大学入試で1次試験を通ったていどの安堵感」だったという。

 「でも、京都大学の別府(地球熱学研究施設)やニューカッスル大学に救われたときのように、ああ、今回もなんとか生き残ったと思ったことは事実ですあの年縞を完全に回収できるかどうかが、僕の人生の大きな分かれ道になるであろうことは分かっていましたから。年縞研究の難しさを深く知るようになった今になってふり返ると、ずいぶんと無謀なギャンブルをしたものだと思います」

 ちなみに現場で進めた写真照合は、即席の方法にすぎなかった。ミリ単位で年縞が完全に連続しているかどうかは、この段階ではまだ疑念を残していた。その確認は、イギリスに帰ってからだ

 「3カ月かけてていねいな対比作業をおこない、最終的に完全連続が得られているという結論に至ったのは、この年の12月になってからでした。その時は、思わず夜中に叫びそうになるくらい嬉しかったです

(8)8月11日の夜、最後のコアを梱包し終わった後、チームは「水月ヒルトン」から車で10分、若狭町役場に近い「みかた温泉きらら」(「縄文の湯」がある)に繰り出して汗を流したのち、その隣にある「焼肉ぎんちゃん」で打ち上げをし、存分に飲んだ。運転のため飲まない係を引き受けてくれたのは、五反田さんだった。

6年がかりの気の遠くなるような作業が始まった
 「『水月ヒルトン』の長期滞在組は戦友のようだったので、40日あまりの作業から解放されてとても嬉しい反面、翌日から撤収に入り離ればなれになるのが寂しかったですね」
 初めて得られた「年縞」の全データは、水月湖「年縞」プロジェクトに携わる研究者たちにDVDで配付、またデータベース化してサーバーに保存した。

 そして2006年9月15日、早瀬漁協の冷蔵庫の棚2つを埋め尽くした水月湖の「年縞」コアは、魚用の冷蔵コンテナに入れてイギリスのニューカッスル大学へと送られた。

2006年8月16日、最後のコアが福井県漁業協同組合連合会早瀬支所の摂氏4度の冷蔵庫に運び込まれた。完璧なコアを得て嬉しそうな中川さん(写真提供:中川毅・Suigetsu Varves 2006 project)

 これから「年縞」の縞の数の勘定をしなければならないが、それだけでも7万なのだコアに含まれる植物の葉の化石を取り出し、「炭素14」による年代測定も行わなくてはならない。花粉の抽出と分析という中川さんの「本業」も開始だ

 水月湖の「年縞」を歴史の「ものさし」にするための気の遠くなるような6年がかりの作業が、ニューカッスル大学のみならずいくつもの研究機関の協力のもとで始まった。


http://business.nikkeibp.co.jp/article/tech/20130912/253328/




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◎.どんな分野でもそうでしょうが、5年十年という月日を掛けないと一つの結果が出ない研究まさしく一生を賭して取り組む仕事、周囲からも国としても期待の大きく掛かるところでしょうね「竹の定規」と「そろばん」の組み合わせが浮かんだら中々頭から中々消えません。せめてものエールを送っているつもりなんでしょうかね? (keniti3545)


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