「keniti3545」since72:6月5日(火)曇り14℃「東日本大震災」453日

*朝トレ:6時45分〜7時55分

ちょっと足も重い、14℃の気温なのに寒〜だ。今日は、倅休みでちょっとした買い物と大谷川公園経由ファミレスで「昼食」と予定を告げられていたのだが「パス」の言い訳が出来てしまった。コースにはカラスが1羽電線上から一瞥、一声林に向かって「心配なし」or「奴だけだよ」なんて相棒に知らせてるんだろうか? 

「B下」メニューとして消化(走無しの分、10分間延長)、ホントは走行距離のの報告でないと本物では無いな。「外出拒否」の手前、シャワーは中止です、はい。

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*「東日本大震災」453日

    今、「フクシマ311の反省」
今日の一題 「騙した者が当然一番悪い」! 事故調の報告は何処まで!?


鬼蜘蛛おばさんの疑問箱(2012年6月)



騙した者の責任こそ明確にすべし2012年06月01日


 以前にも何度か書いたが、私は自分の利益のために人を騙す人が何よりも嫌いだ。さまざまな悪質商法然り、原子力ムラをはじめとした利権構造然り。

 今回の福島第一原発の事故は、まさにそうした「自分の利益のために人を騙す」ことが幾重にも重なった結果だ。原子力発電を進めてきた人たちは地震大国日本における原発稼働がいかに危険なものなのかを知っていた。しかし、国民にはタレントや文化人などを利用して「日本の原発は安全」という安全神話を振りまいた。さらに「クリーンエネルギー」だ、「温暖化対策」だと言っては原発をどんどん増やしていった。


 一方で、過酷事故を意図的に想定しようとせず、安全対策を怠った。実際に苛酷事故が起きればSPEEDIの情報を隠蔽し、何も分からない住民を被ばくさせた。事故に関する国民への説明も嘘と隠蔽ばかり。原子力ムラの人々が自分たちの利益のためにこうした騙しや欺きを続けてきたのだ。今さらながらこの無責任体質に怒りがおさまらない。

 お金に目がくらんだ人たちの無責任極まりない「嘘」や「隠蔽」が取り返しのつかない大事故を起こし、深刻な放射能汚染を引き起こし、多くの人を被ばくさせ、世界中を汚染させた。福島第一原発は今も収束のめどすら立たず、危険な状態が続いている。騙したものの責任は限りなく重い。


 それは以下の烏賀陽さんの記事を読めば歴然だ。

福島第一原発事故を予見していた電力会社技術者 無視され、死蔵された「原子力防災」の知見(JBPRESS)


 この記事に登場する松野元さんは、かつて四国電力に勤務しており、全国の原発事故の対策システムを設計運用する責任者だったそうだ。その松野さんは、原子力発電所の防災についての教科書ともいえる本を書いていた。つまり、日本でも原発事故の対処の教科書が存在していたのだ。

 松野さんは「率直に言って、たとえSPEEDIが作動していなくても、私なら事故の規模を5秒で予測して、避難の警告を出せると思います。『過酷事故』の定義には『全電源喪失事故』が含まれているのですから、プラントが停電になって情報が途絶する事態は当然想定されています」という。日本の原発でも過酷事故を想定していたし、もし事故が起こったならそのときの対応は明確に分かっていたという。福島の事故ではそれが全く活かせなかったのである。

 全電源喪失という事態が分かった時点で、即座に安定ヨウ素剤を飲ませ、速やかに住民を避難させなければならなかったのに、それができなかったのはなぜなのか? 松野さんは「何とか廃炉を避けたいと思ったのでしょう。原子炉を助けようとして、住民のことを忘れていた。太平洋戦争末期に軍部が『戦果を挙げてから幸福しよう』とずるずる戦争を長引かせて国民を犠牲にしたのと似ています」という。過酷事故を目の当たりにしながら、廃炉を避けたいという思考になってしまうのだから、お金のことで頭がいっぱいだったに違いない。


 今回の事故ではっきりしたのは、格納容器が壊れるような事故はもちろん想定できたのに、実際には想定することを避けてきたという腰を抜かすほどの無責任さだ。すべてが「はじめに原発ありき」で進められてきたということだ。原子力ムラの連中は、さまざまな手段をつかって「日本の原発は安全」だと言って国民を騙し、欺き、見下し、反対運動を潰し、嘘と詭弁を繰り返してきたのだ。

 小出裕章さんが「騙されたあなたにも責任がある 脱原発の真実」という本を書かれている。私にはこのタイトルがどうしてもしっくりこない。騙された国民にまったく責任がないとは思わないし、今こそ騙された者たちが原発の真実を知って原発を止めなければならないと思う。が、こんなタイトルにしてしまうとなんだか騙したものの責任がとても軽く感じられてしまうのだ。


 「真実を知らされず、騙されて被ばくを余儀なくされた者の責任」と「自分の利益のために嘘をつき続けて国民を被ばくさせた者の責任」ではその重みが全く違う。たとえ「騙された者」に「原発の真実を知ろうと努力しなかった」という怠惰な側面があったとしても、自分の利益に目がくらんで騙されたわけではない。それに、情報が溢れ、生活に追われている中で、何から何まで自分で真実を探求し、おかしいと思うことに異議を唱え続けることは並大抵のことではない。

 マスコミも原発の危険性などほとんど報じてこなかった。マスコミに所属していないフリーのジャーナリストですら原発問題に取り組んできた人はわずかであり、原発に大きな疑問を抱いていなかった人も少なくないだろう。まして一般の市民に対し「真実を知ろうとしなかった」とどれほど責めることができるだろうか?


 それに対し、騙していた者たちは自分たちの嘘や隠蔽によってとんでもない大惨事が起きることが分かりきっていた。それでも嘘を言って、あるいは真実を隠して原発を推進してきた。大勢の人々の命より、自分の利益の方が大事なのだ。この人たちとて被ばくで苦しむ人たちの姿を想像することくらいできるだろうに、自分の利益のためには他人の命を平気で切り捨てられるのだ。その感覚が私には理解しがたい。そう思うと、騙された者の責任とはどれほどのものか、と考えこんでしまう。

 「騙された者にも責任がある」という主張は、時として詐欺師の責任を曖昧にしてしまう。泥棒をしてはならないことは子どもでもわかる。人を騙してはならないことも同じだ。ところが、この国の政治を牛耳っている人たちは「人を騙してはいけない」「欺いてはいけない」という当たり前のことが全くできない。彼らにとっては国民を騙すことが当たり前であり、騙すことに慣れ切っているのだ。騙しが隠しバレてしまうと、こんどは嘘と隠蔽で誤魔化そうとする。この倫理観のなさには辟易としてくる。先進国の中で、これほど倫理観のない国もないのではなかろうか。


 いまもっとも明確にしなければならないのは、原発を推進してきた人たち、そして今でも嘘と隠蔽を続けている人たちの責任だ。しかし、政治を牛耳っている人たちが原子力ムラの詐欺師なのだからやっかいなことこの上ない。彼らはどこまでも国民を騙し、責任逃れをしようとするだろう。騙された者たちは、それに立ち向かっていかねばならないのだ。「騙された者も悪い」などと言っていたら、さらに詐欺師に騙され利用されかねない。

 そして、この国はなぜこれほどまでの詐欺大国になってしまったかを考えることで、騙されていた国民の責任と今後とるべき道も見えてくるのだろうと思う。

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◎.こんな立地条件の悪い国に、54基もの原発を作り、事故は起きないから、何かトラブルが起きたとしても、「止める」・「冷やす」・「閉じこめる」、事が最新の装置の働きで完璧に行われれる事によって決して大きな事故は起きない。と「事故が起きるまで騙され続け」、事故後は、直後の「避難初動にもウソをつかれ」てまたまた騙され続けた。

 この結果は、「事故規模の拡大」・「被爆者数の増大」・「被爆程度の拡大」・「放射性物質の飛散拡大」・「放出量の増大」・「事故後処理の人的被害増幅」・「金銭的損害の増大」etc.etc ・・・・。

 起きてしまった事故だが、この事故の被害はまだing付の進行形でありこの事実と将来への対策はやはりingを携えた対応が必要になる。何回でも、反芻して記憶に残さなければならない。最低この記事の内容は日本国中の住民が知識として持たなければ何時かどこかで大変なリスクを個人的にも或いは家族ぐるみで受けなければならないことにも成りかねない。 (keniti3545)




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「プラス1」

NHK 「プロフェッショナル 仕事の流儀」

     『二人が信じれば大胆になれる』
建築家 手塚貴晴と手塚由比

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ご夫妻の語録 (文中に出てこない語録、編集あり)

・建築は自然の力にかなわない。

どんな高い防潮堤を作るよりも経験した事実を後世に伝える事が大切だ。 塩水吸い上げた材料も、見た目に捕らわれず使う。安全に心配があれば4倍強の施策もするその使いたい材料(お寺を守ってきた杉の木)のみで作る。

・どんな万全な策を施しても自然には勝てない、先人が施した策を超える事象には逃げるのみ。その判断を促すための素材をつかう、過去の事象を目で見える様に残す。

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これが私たちの流儀だ!

『沢山の要望に応えるより、たった一つのお気に入りを作る』

依頼者と打ち合わせをする手塚たち

大胆で特徴的なデザインで知られる手塚貴晴と手塚由比の建築。二人が建物を作るときに心がけている流儀が「たくさんの要望に応えるより、たったひとつの“お気に入り”を作る」ということ。たとえば家を作るとき、依頼主は間取りや収納について、たくさんの要望を手塚たちに伝える。

しかし、その要望をすべて叶(かな)えることは難しいことも多く、さらに二人は全ての要望に添うだけだと場合によっては平均的でつまらない建築になってしまうと考えている。

そこで、すべての要望を満たして満足させるよりも、どこかひとつ、その建物を気に入ってもらう取り柄を作るようにしている。人が大切にするのは、自分だけの、個性のある、世界にひとつの建築。そんな信念があるからこそ、二人は斬新なデザインの建物を世に送り出し続けることができる。

『二人の力で大胆に常識を越えろ』


ふたりで家の模型を作る

世界にひとつの“お気に入り”を目指す二人の建築。その大胆なアイデアは夫婦ならではのコラボレーションで生まれる。基本的な設計を担う夫・貴晴はどちらかというと理性でアイデアを積み上げていくタイプ。すると、必ず一人では越えられない壁にあたる。

そんな時に妻であり、建築家である由比の存在が欠かせない。妻・由比は直感的かつ客観的な目で貴晴の設計案を見ていく。時に理性的すぎて、平凡になりそうなアイデアを独創的なアイデアに仕上げるのが由比の役割。

本当にクリエイティブなものは理論を越えた所にある。そんな境地に達するために二人のプロとしての異なる特徴が必要になる。二人がいいねと信じたものなら、大胆なアイデアも、決して一人よがりではない、人々から愛される建築になると二人は信じている。



『建築には人を変え、人を豊かにする力がある』

被災地の幼稚園を再建する


これまで数多くの「お気に入りの建築」を生み出してきた二人。そのたびに二人が驚くのが建築の持つ力の大きさ。たとえば、隣の敷地に住む実家の親と仲良く暮らしたいという思いに応えて作った、家の片側が実家に向かって全面開かれた「縁側の家」では、家の完成後に実家の母親が頻繁に縁側を訪れるようになった。

母親は孫とすごす時間が増え、そのひとときが母親の生き甲斐(がい)になった。建物が、中に暮らす人々の暮らしを大きく変え、豊かにする力を持っている。そのことを強く実感している二人だからこそ、建物の窓一つ、手すり一つといった細部にまで一切妥協しない徹底したこだわりを貫くことができる。



プロフェッショナルとは
 







『プロフェッショナルのこだわり』

 仲間はずれを作らない

建物には人を変え、人を豊かにする力がある。そう信じる二人が、自分たちの建物によせる一つのこだわりが、「仲間はずれを作らない」こと。誰かが一人孤独でいることを好まず、いつもみんなで笑顔でいて欲しいという二人の想いは、作る建築にも形となって現れる。

二人が作る家の多くは、孤立した個室がない。2007年に完成した幼稚園は楕円のドーナツ型という独創的な形をしているが、このデザインも仲間外れを作らないというこだわりから生まれている。

建物に端っこがあると、そこで一人で寂しく過ごす子どもが出てくる。たとえ一人でいても仲間といる安心感が得られるようにという思いをこめてこの幼稚園が誕生した。自分たちの作る建物の中ではみんなが一緒ににこにこ過ごせるように。この願いがどの建物にも息づいている。

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◎.これぞ「プロフェッショナル」、色んな視点はあるだろうが茶人が庵を愛し、物書きも自室が無ければ筆が進まないかも知れぬ。我れのようにひたすら独房に逃避している輩も少なくないかも知れない。それでも幾分、斜に構えて物見る我れにしても素晴らしいな〜と思える生き方だ。

自分達も仕切りのない屋内、外界の空間とも寄り多く共存出来るスペースを作り出す家で子育ての最中だ。 時々覗けるDVDでも無いものかと思う。 NHKのオンデマンド配信中、6月8日(金)午前0時15分再放送ありです。 必見とは言わずとも、一見に値する番組と思います。お勧めいたします。 (keniti3545)


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