「72才の日記ー21」5月7日(月)晴れ4℃「東日本大震災」21日

*朝トレ:6時30分〜7時30分

気温10℃の差は、さすがに「ン」となる。体調の良い今はこの「ヒンヤリ」感は良い気持ち〜。です 流れの戻っている大谷川、対岸の国道にはまだ「さくら」散り始めた木も多いが未だ遠目にも咲き誇っている「者」も居る。

 男体山には残雪が日に日にやせ細った筋が5、6本という感じに成っていく。でも毎年5月いっぱいは消えない事の方が多い。今日も良い気持ちで朝トレ終了!



*「東日本大震災」424日

我々の知らなかった事がまだまだたくさんあります!河北新報さんの記事から)


今日の一題

第2部・迷走(3)怠慢/ヨウ素被ばくを看過


弘前大グループによるヨウ素131の被ばく調査=2011年4月15日、浪江町津島地区(床次教授提供)


<安心感得られず>

 東京電力福島第1原発事故で福島県浪江町から宮城県に避難する男性(35)は1月、いわき市の病院で家族の体内被ばく量を検査してもらった。幸い長女(6)と次女(3)からは検出されなかったが、安心できない。

 「事故当初のヨウ素被ばく量が含まれていないから」と男性は言う。
 放射性のヨウ素131の寿命は短い。その量は8日で半分、1カ月で14分の1、3カ月過ぎると2435分の1…。時間がたてば測定機の検出能力を下回り、確認できなくなる。
 昨年3月14〜15日、男性の一家は原発の北西約30キロの浪江町津島地区に避難。子どもたちは14日に1時間ほど外で遊び、15日は雨にもぬれた。

 浪江町民約8000人が避難した津島地区は線量が高かった。15日夜の文部科学省の測定では毎時270〜330マイクロシーベルト。事故前の数千倍だった。
 15日午後、南相馬市に移り、男性と家族が検査を受けると、測定機の針が振り切れた。数値は教えられず、服を洗うよう指示された。
 男性は「子どもたちがどれぐらい放射線を浴びたのか分からない。まめに健康検査を受けるしかない」と途方に暮れる。

<「運搬できない」>

 ヨウ素131はウランの核分裂によってでき、甲状腺に蓄積する。原発事故で環境中に放出された場合、セシウム137(半減期約30年)とともに、最も警戒しなければならない放射性物質だ。
 昨年3月末、国はいわき市福島県川俣町、飯舘村に住む0〜15歳の約1100人を対象に、甲状腺被ばくの簡易調査を実施した。基準を超えるケースはなかったとされたが、実は使用した測定機にヨウ素の量を特定する機能はなかった。

 原子力安全委員会は政府の原子力災害対策本部に、甲状腺モニターを使った追跡調査を提案したが、実行されなかった。「モニターは重く運搬が困難」「本人や家族、地域に不安を与える恐れがある」との理由だった。 県は昨年10月、ようやく18歳以下の全県民を対象に甲状腺検査を始めた。これまで異常のある人はいなかったという。

 だが、津島地区で避難中に被ばくした人たちの怒りは収まらない。浪江町の紺野則夫健康保険課長は「国や県はわざと検査を遅らせたとしか思えない。子どもたちに、もし(放射線の)被害が出たらと思うと、胸が張り裂けそうになる。許せない」と批判する。

 線量が一気に高まった事故当時、一体どの程度のヨウ素を体内に取り込んだのか。今となってはデータ不足のため、推測するしかない。
 弘前大被ばく医療総合研究所の床次真司教授は昨年4月12〜16日、津島地区の住民ら62人を対象にヨウ素による被ばく量を測定した。測定機の重さは2キロにすぎない。


<成人最大87ミリシーベルト

 体内に残っていたヨウ素131を基に、1カ月前の3月12日の1日で吸い込んだと仮定して試算すると、甲状腺に与えた放射線の影響(等価線量)は成人で最大87ミリシーベルトにもなった。その数値を1歳児に単純換算すると700ミリシーベルトを超える。もちろん外にいた時間や空中のヨウ素濃度によって、この数値は大きく変わる。

 精度を上げるために床次教授はより多くの人を調べようとしたが、調査は5日間だけだった。県からやめるよう求められたという。

 線量がピークだった昨年3月中旬のヨウ素の濃度を知るデータは、ほとんど残っていない。床次教授は「追跡調査を行わなかったり、データを蓄積しなかったりしたことがかえって、住民に不安を抱かせる結果になっている」と指摘する。


==================



 第2部・迷走(4)孤立/避難指示拡大し混乱 



避難者の車で主要な道路と周辺は大渋滞になった。自力で避難できず、20キロ圏内に取り残された人も多かった=昨年3月12日午後、福島県浪江町津島地区(双葉厚生病院提供)





<国から連絡なし> 

昨年3月12日夕、東京電力福島第1原発事故による避難指示が10キロ圏内から20キロ圏内に広がった。早朝に続き、この日、2度目の拡大だった。

 福島県浪江町は役場機能を原発の北西約30キロの津島支所に移していたが、まだ町内の10〜20キロ圏には多数の住民がとどまっていた。

 浪江町災害対策課の岩野寿長課長は支所のテレビで、20キロ圏内への拡大を知った。国・県からの連絡はない。
 「情報がなく、とにかく逃げろと…。パニックだった」と岩野課長。町は大急ぎでバスを準備し、10〜20キロ圏の学校や公民館などに身を寄せる町民を迎えに行った。

 政府の避難指示は事故後、次々に拡大され、住民を翻弄(ほんろう)した。11日夜、政府の原子力災害対策本部は原発3キロ圏内の住民に避難を指示。それから1日足らずで3キロが10キロ、10キロが20キロへと相次いで拡大された。

 安全とされた地域がすぐ危険になり、移動し直す羽目になった。運転中の原子炉3基の冷却不能という事故の重大さを見誤ったためだ。 朝令暮改 の避難指示に追われ、命懸けの避難を強いられた人も多い。

<35人が所在不明>

 原発の北西約4キロにあった双葉厚生病院(福島県双葉町)は12日朝、第1陣として自衛隊トラックで避難させた入院患者35人の行方が分からなくなる事態に陥った。

 所在が分かったのは3日後の15日。避難指示は既に20キロ圏内まで広がっていたのに、原発から約11キロの浪江町特別養護老人ホームに入所者とともに取り残されていた。

 重富秀一院長は「(第1陣が)病院を出た時点で、避難指示は3キロ圏内から10キロ圏内へ変わったばかりだった」と言う。
 福島県川俣町方面に向かったはずが、患者たちは10キロ圏を脱出したということで、トラックから降ろされたらしい。

 第1陣の患者35人が出発したのは12日午前8時半すぎ。すぐ自衛隊トラックを追い掛けるつもりだった職員らは、それまで避難を呼び掛けていた警察官に突然、引き留められた。

 「病院の中にいるように」。このころ、1号機では圧力が高まっていた格納容器内から蒸気を抜くベント作業に向け、準備が始まっていた。

 警察官の指示は、放射性物質の放出に備えるためだったとみられるが、通信は途絶していて、第1陣の行き先を知るすべはなかった。

 避難区域が拡大される中で、地元自治体の多くは、自力で避難できない人の数や居場所を把握できなかった。町職員も避難し、行政機能がほぼ失われていた。


<800人超救助待つ


 県災害対策本部の担当者は「救出すべき人数や症状を把握できなかった。電話が通じなかったのが痛かった」と言う。

 福島県大熊町のオフサイトセンターに置かれた現地対策本部は13日以降、避難指示区域内の病院や福祉施設を回り、寝たきりの高齢者らの数を調べた。本部長だった池田元久経済産業副大臣(当時)は「14日未明の時点で849人が救助を待っていた」と語る。
 自衛隊と警察による救出活動は15日午後まで続いたが、原発から約4.5キロの双葉病院(大熊町)ではその間、命を落とす患者が相次いだ。

 地域の防災計画で想定されていた避難の範囲はせいぜい原発の3キロ圏内。これほど広範囲に高齢者や重症患者らを避難させることを誰も想像していなかったため、災害弱者の孤立を招いた。

【避難指示の経過】

昨年3月11日

 午後9時23分 3キロ圏避難指示、3〜10キロ圏屋内退避


同3月12日

 午前5時44分 10キロ圏避難指示

 午前10時17分 1号機でベント作業開始

 午後6時25分 20キロ圏避難指示


=====================

◎.全く危機管理の体を成していない状態での、避難指示??!  (keniti3545)



=====================


「プラス1」 品格を落とす「総理語録」

観光のもつ力
総理の語録2012年05月01日 (火曜日) 14:16

<2012年4月17日 WTTCグローバルサミット開会式> 

 わたくしは観光のもっている力を信じています。観光は新たな出会いと季節の歓びをもたらし、地域を勇気づけ経済を活性化します。そして、観光は国境を越えて、人々の信頼関係を育むことに繋がります。日本は、被災地は、それぞれの地域においしいものがあります。 おいしいお酒があります。人情の機微があります。日本は素晴らしい、   『被災地は素晴らしい』 是非ご理解をいただきたいと思います。


・・・・・・・・・・・・

? どうとってもおかしい。「思いやりの欠けた言葉」として聞こえてしまう。


・前段に、被災地は、それぞれの地域においしいものがあります。おいしいお酒があります。人情の機微があります。と言う説明はありますが、文節が移っての更なるアピールなら、せめて「各地名」を呼称するなりの気遣いがあってしかるべし!、 またこの文章がこの総理の語録編集のみに「この文章」となったのなら 「スタッフは、毎回総理語録の文章掲載」に、「何の考えもなく」いとも簡単に語句の切った貼ったを行なっているのでしょうか?  


「総理」に対する気遣いの欠如もさることながら「国のアピール」の引き合いに 「一括り」の扱いで『被災地』と一言」 とは、そこに 「総理の情」など微塵も感じられませんよ!?  国外へのアピールと同時に各被災地の皆さんにもこれからの「頑張り」を期待する心情をも伝える為の『総理の語録』ではないのですか?! この関係スタッフに反論があれば聞きたいものです!? (keniti3545)

====================