「72才の365日」3月19日(月)「東日本大震災」375日

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*「東日本大震災」375日


今日の一題 

大江健三郎 「僕たちは、そんなに騙しやすい国民でしょうか。」



(Nuclear FC:原発のウソ)2012年03月18日22:13 カテゴリ

脱原発世界各国3/19 「僕たちは、そんなに騙しやすい国民でしょうか。」大江健三郎(1)ルモンド紙

3月16日金曜日、今年で第32回目となるパリ恒例ブック・フェアー(本の見本市)が開幕しました。明日19日までの4日間で、世界40カ国から20万人の市民、2千人の作家、40の出版社が一堂に会します。フランスでの日本文学や漫画への関心は高く、今年は『フクシマから一年』と題して過去二回目の日本特集が組まれています。


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「僕たちは、そんなに騙しやすい国民でしょうか。」

福島原発事故の発生から1年。原発の廃止に向けてたたかうノーベル文学賞受賞作家、語る
                                (フィリップ・ポンス特派員)


日本の著名人たちが自分の考えを述べることをやめ口を閉ざす中、1994年のノーベル文学賞受賞者である大江健三郎は、日本が1945年の敗戦翌日に自ら宣言したヒューマニズムの価値を、ひるまず私たちに思い出させ続ける稀な存在だ。

こうしたヒューマニズムの中で最も重視されるのが、平和主義である。大江健三郎は、原子力エネルギーの使用を含めた現代社会における全ての問題において、良心の問題を最も重視している。福島原発で起きた惨事は、大江氏が現在「サヨナラ原発」運動を盛り上げる傍ら書き続ける小説の主要なテーマとなっている。


今回、2回にわたる面会とファックスによる作家からの手書きの追記に基づいて構成されたインタビューの中で、大江氏は2つの懸念を挙げている一つは2011年3月11日以来、彼の祖国である日本が感じている懸念そして「本質的な道徳的あり方」のために闘い続ける、人生のたそがれ時にある作家自身が持つ懸念である。



● あなたは広島と長崎への原爆投下をきっかけに政治への意識を持つようになりました。福島で起きた大惨事は、あなたにとって広島や長崎と同様に重要ですか?

ある日、広島から来た新聞記者が私にこう尋ねたことがありました。


「広島への原爆投下の後に起きた人間の悲劇を、世界は記憶し続けるでしょうか?」


彼の問いは、ずっと私の心に刻まれています。福島での事故が起きて最初に思い浮かんだのが、原爆投下の後で亡くなった何万人もの人々の姿、そして生き延びた被爆者たちの際限ない苦しみのことでした。

日本を占領していたアメリカ軍は原爆被害者たちの検査はしましたが、治療はしませんでした。彼等はただ、核兵器の破壊的な威力を知りたかっただけなのです。

私たちは後に放射能被ばくの影響を、個々の民間団体が行った調査の結果から初めて知りました。被ばく者に癌が生じていること、そして病気が時に遺伝する性質のものであることを知ったのです。


福島での原発事故が起きた後、広島で被ばく者を治療した医師たちが、事故で汚染された地域の住民たちを放射能の危険から守るべく先頭に立っています。これから何年もの間、私たちは福島原発事故の後遺症に直面することになるでしょう。

現在に至るまで、核兵器の廃絶は私にとって重要な関心事でした。でも(今の私は)原発を止めることが、一人の市民として、そして作家としての自分にとって最も重要なことの一つだと考えています。



● 今回の原発事故は自然災害によって引き起こされた面もありますが、それ以上に備えが十分でなかったことが主な原因と考えられています。日本人は、民主主義よりお金もうけを優先させる経済発展モデルの悪弊に気づくでしょうか?

今回の事故で明らかになったのは、日本社会の民主主義が脆弱なものであったということです。ぼくたちは問題に声を挙げることができるでしょうか。それとも、このまま黙ったままでいるのか。今から10年たてば、日本が「民主国家」の名前にふさわしい国であったのかどうかが分かるでしょう。

こんなに深く日本の民主主義が未熟であったことを感じたことはありませんでした。今起きている危機は、福島原発事故についてだけのことではないのです。私が最も絶望させられたのは、電力会社、政府の役人、政治家、メディア関係者が結託して放射能の危険を隠すために行った「沈黙による陰謀」とも呼ぶべき行為です。

去年の3月11日以来、たくさんの嘘が明らかになりました。そしておそらくは、まだこれからも明らかになってゆくでしょう。これらのエリートたちが真実を隠すため陰謀を巡らせていたことが明らかになって、私は動揺しています。ぼくたちは、そんなに騙しやすい国民なのでしょうか?



● 日本人は世界で初めて被ばくを経験した国民です。それなのに、なぜこんなにたやすく原子力エネルギーが安全だと言う言葉を信じたのでしょうか。

広島と長崎に原爆が落とされた時、僕は10歳でした。終戦の後、安心した気持になったのを覚えています。戦争が終わったからこれで学校に行ける、と。でも年齢を重ねる過程で私は、日本が戦争を放棄する憲法を持っているにもかかわらず、沖縄をアメリカに渡してしまったことに気づきました。

こうして(米軍の)核兵器を沖縄に設置し、「原子力の平和利用」に向け突き進んで行ったのです。私は当時、こうした流れを批判すべく、『広島ノート』と『沖縄ノート』を書きました。

1947年にできた憲法のもう一つの重要な柱である「民主主義」は、福島での大惨事の発生によって明らかに揺らぎました。私は、市民社会が目を覚まして代替エネルギーの開発を求め、地震学者たちの警告に耳を傾けるよう求めることを望んでいます。


福島で事故が起きて以来、何事も良心に照らして考えなければならなくなりました。原子力エネルギーを単なる経済生産性の観点からのみ評価することはできなくなったのです。

原爆による被ばく者たち自身が、この原爆投下を道徳的な観点から批判し、もう二度と誰も同じ苦しみを味わうことが無いように、と声をあげて来ました。政治家たちは彼等の声を無視したのです。

裏切りは、1956年に「平和のための」原子力利用についての法律が成立したときに遡ります。あの時、私たちは後に福島原発事故の元になる果実を木の枝からもぎとって自分のものにしたのです。



● ヒューマニズムが破壊されてゆく中で、文学はどのような役割を果たすのでしょうか。

私が(『群像』に執筆中の)『晩年のスタイル』の中でずっと心に留めているミラン・クンデラの言葉にこんなものがあります。


「小説家というものは皆、自分から行動を始める時、一番大切な物以外は全て切り捨てなければなりません。自分自身と自分以外の人に対して、本質的な良心の重要性を強く説かなければなりません。」


日本人の作家としての私の役割は、原発をなくすためにたたかうことです。日本の市民社会が(原発をなくすという)この「大仕事」を完成することに成功する日、私の仕事にはやっと意味が与えられるのです。

これは国民の意志が、おそらく歴史上初めて勝利するということに他なりません。 「大惨事」という言葉には、私にとって二つの隠れた意味があります。一つは、今日日本が経験している(原発事故による)大惨事。そしてもう一つは、人生の黄昏時にさしかかった全ての作家が経験する大惨事(注)です。

(注)個人としてやがて来る死を目前にしながら、揺らぐ民主主義という「惨事」の渦中にいる危機感をさしていると解釈できる。

(転載元:フランスねこのNews Watching)


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同次元でのもう一題

ETV特集「生き残った日本人へ〜高村薫 復興を問う〜」

震災発生直後、作家・高村薫は、これが日本を根底から変える契機になると熱く語った。少子高齢化、農業の衰退、地方と中央の格差などの課題に初めて向き合う機会になると考えたのだ。しかし、夏には期待が落胆に変わっていた。原発再開をめざす動き。現実性のない除染計画。目先の事にとらわれる政治。高村は怒った。日本人には「理性と覚悟」はあるのか。復興に向かう日本をみつめ思索を続けた作家の1年間に密着した。

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(keniti3545 全編要約)

◎.この災害は大災害ではある、しかし震災前のこの地域の於かれていた立場も忘れてはならないのだ。消えるものも出てくるはず、存続の不可な物事、担い手の居なくなっている田畑、海岸の荒れた漁場、等 5年10年と再生に労力とお金を費やして元の姿に戻したところで待っていた住民が80、90才になっても昔のような農作業が出来るのか?


 高齢の漁師も言葉を発する、こんな所のがれき整理ばかりにこれ見よがしの経費を掛けるのではなく、子供達の教育にもっと金を掛けて立派な若者を育ててもらいたい、そしてその若者達に仕事場を再生してもらいたい。と訴える。 



 「がれきと化した我が家」の跡に立ち、此処は勿論自分の生活の拠点だった。しかし、今は、此処は「俺の仕事場であり、俺が子供を育てた場所だった」でも、もう未練はない。戻ろうとは思わない。と言う人も居た。数少ない例だろうが・・・。 



 復興とは闇雲に元の姿に戻す事だけではないだろう。「理性を持った判断」を「国」も「自治体」も、「住民」も考えるべきだと高村は思っていた。大津波の歴史における繰り返しの被害にも高台移転を推奨、ここでも、元へ戻すばかりが復興ではない。「理性を持った判断」で間違いを繰り返さないようにすべきだ、変わらなければ成らないと思っている。  


 一方、自然の治癒力は凄い、自身が壊したものは自分が復元する。但し、人間が勝手に作り出してしまった「放射性物質」などの毒性を治癒する能力はない。 日本は「変わらなくてはならない」! しかし、行き詰まった日本人は何を望むのだろう? 生と死は常に繋がっている。「もういいや」?、いや「未来はある」テクノロジーに余力のある中に生き残った日本人は何を成すべきか?! 高村は考え続ける。


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高村さんもまだまだ答えは出ないと結んでいました。

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「お二人のインタビュー内容に」 我れの思いダブらせて (keniti3545)

 我れにしても、国民の一人として心を痛め、(このお二人の作家の如くまで、高める思いにこそ至りませんが)何か出来ることはないかと自分の出来ることを我れなりに模索した、「311」東日本大震災震後の1年でした。しかし、今でもどこか遠くの出来事とは一度たりとも思った事はありませんでした。

 出来る事は限られるが、今の姿勢を如何に保つかは自分への挑戦でもある。そう、少しは若い人より有効に使える時間がある事を生かして同時代に生きた人間として次世代へ語り継ぐ事。「語り部の一人として身を起き続けたい」と思う。 一方的に押しつけられるニュース・報道記事等に対し、おこがましくもあるが「真実を求める心を失わず」、「偏りのない思考力と判断」の出来る「人」を育てるお手伝いが少しでも出来れば本望である。 


 真理の探究には時間を掛けた読書が欠くべからざる条件の一つではあるが、「リアルタイムに起きる事象に」「リアルタイムの判断」が要求される局面も多い。大きな事象への判断は、「リアルタイムとは言っても年単位の時間」が必要にもなる。今回我れが取り上げた「お二人の作家」にしても、考えるプロセスも、導き出される結論も自身の中で変化して行っている。


 人間も長く生きてくれば「人間の生活は自然の営みに逆らう事が出来ない」いうことが解ってくるのだろう。 利用し合う事は出来ても作り替える事は出来ない。と言う事だ。 エネルギー資源へ効率よい使い方の出来る工夫は良い。但し、自然界に存在しないバランスを欠いた「物質」など作り出せば廃棄物の処理が出来ない・対応出来ない事故の発生などにも遭遇してしまう。 


 農作物に効果のある肥料を施すのは良しとしても、遺伝子の組み換えなどは将来にどんな禍根を積み込んだ行為か計り知れないリスクを負っては居ないのか? これも危惧するところだ。


 ちょっと私見を挟みすぎたが、お二人の方向性は見えた。 大江健三郎さん」は、日本人の作家としての私の役割は、原発をなくすためにたたかうことです。日本の市民社会が(原発をなくすという)この「大仕事」を完成することに成功する日、私の仕事にはやっと意味が与えられるのです。 高村薫さん」は、「まだ、まだ答えは出ない」自分の思う「良かれと思う方向に日本が変わる事が本当に正しい事なのかも」解らない。と結んでいた。(keniti3545)
      
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「プラス1」後日の検証用に UPです
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生き生き箕面通信1197 ・黒い猫でも「脱原発」ならいい猫だ
2012-03-19 06:47:24 | 日記
 

黒い猫でも「脱原発」ならいい猫だ

 「可及的速やかに全原発の廃止」を盛り込んだ株主提案の骨子が、昨日3月18日に開かれた大阪府市のエネルギー戦略会議でまとめられました。「絶対的な安全性の確保」や「発送電の分離」なども盛り込まれています。

 ぼくは、橋下徹大阪市長が独善的に進めている教育・職員条例の政治思想や手法は排除されるべきと強く考える立場です。そのうえで、今回の関電に対する株主提案には、目をつぶる気持ちで支持します。「原発再稼働」を認めるような文言が見られる点は受け入れられず、なお注文したいことがあります。しかし、 「可及的速やかに全原発の廃止」は、現役の首長が打ち出した方針としては、全国に先駆けるものであり、極めて大きな意義があると評価します。「黒い猫でも白い猫でもネズミを捕るネコはいい猫だ」なのです。

 問題は、この株主提案をどのようにして関電に認めさせ、「全原発の廃止」を実現するかです。それには、やはり昨日もこの「箕面通信」で触れましたように、住民投票を行い、住民投票の結果が「原発廃止」と出るなら、それが関電に対する最も強い圧力になるはずなのです。ところが、橋下氏は、この住民投票を求める署名数が法定数に達したにも
かかわらず、「住民投票は経費がかかり過ぎる」という理由で拒否しています。それこそ民主主義を否定する暴挙です。

 大阪のような大都市部で、しかも「原発エスか、ノーか」という極めて重要なテーマで行う住民投票は、日本の民主主義を成長し鍛える過程で、大変意義のある政治的行動と位置づけられます。それを橋下氏は否定し、しかもその意向をそんたくし、その意向にすり寄って、住民投票をつぶす決定をしようとしているのが、大阪市議会です。情けない限り。

 もうひとつの問題は、こうした市民運動による住民投票の要求と市議会の動向について、大手の新聞がほとんど触れないことです。読売新聞は全く扱いません。読売は、市民運動を軽視ないし敵視しているようです。つまりは、読売新聞は体制側の広報宣伝機関に成り下がり、進んで権力側のパシリをつとめているようなのです。かろうじて朝日新聞が伝えていますが、住民投票を実施させるキャンペーンまでにはいたっていません。

 大阪市だけに任せていては、筆頭株主といえども持ち株数は関電株の9%にすぎません。仮に京都市(同3%)や神戸市(同0.5%)の同調を得られても、関電側は多数決でラクラク否決できます。そして、「民主主義の手続きにより、多数をもって原発を維持し、継続する」といえるわけです。

 決め手は、住民の意思であり、それは住民投票でこそ明確になります。イタリアが国民投票で「原発の全面廃止」を決めたのはまだ記憶に新しいところです。

 大阪市民が、市議会議員に「住民投票実施」を働きかけることが緊急に求められています。

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