「71才の365日」2月16日(木)曇り「東日本大震災」343日

*朝トレ:昼時散歩に移行。女房殿もお帰りになったので明日からは朝トレと呼べる時間に戻りたい。1日の時間配分がずれて、ずいぶんとロスが出た。(ような、気がするだけ?) おじいさん散歩には特記もなし!

*かわせみの「運営委員会出席」、確定申告。昼時散歩も15時30分〜14時10分にずれ込んでしまった。午後の予算委員会の視聴無し。



*「東日本大震災」343日


今日の一題 「電気が足りても足りなくても原発は止めなければならない」 


*ホントはこの記事を紹介したかったのですが(1月31日付け)→  「もう一度原発が過酷事故を起こしたらこの国は終わる」。  次の記事に追いかけられてしまいました。→ (2月13日) 今日「表題の記事」です。 前出の記事は本文中に 「URL」 を付けて於きましたので合わせて一気にお読み下さい。


鬼蜘蛛おばさんの疑問箱2012年02月13日

「電気が足りても足りなくても原発は止めなければならない」 ココログの「もう一度原発が過酷事故を起こしたらこの国は終わる」(http://onigumo.cocolog-nifty.com/blog/2012/01/post-f05d.html)という記事にsayamaさんという方から以下のコメントがあった。


はじめまして。原発をなくしたいというそのお気持ち、お察しします。
あれだけの事故を起こしたのは、安全対策がいい加減だったり、事故対策マニュアルがいい加減だったりという、原発という極めて危険な代物を扱う電気事業者としてあるまじき腐敗体質が招いた結果だった、と私は考えております。
私は、今後の電力行政としては、電力業界と利害関係を持たない第三者の監視を設けるなどをすべきだと思っています。(発送電分離といった過激な考えには賛同できませんが…)
30年以内に再び大地震が来ると予想されています。犠牲者も出るでしょう。
しかし、私はそれでも、「原発なんて今すぐなくせ!」とは言えなかったりします…。別にお人よしだとか、そのようなことではありません。
日本の電力を取り巻く風潮として、設備容量が余っているから無くしても大丈夫、といったのがあります。京都大学小出裕章氏がよく主張しておられます。
確かに発電機というのは設備容量があって、単位は有効電力を表す「kW」です。電力系統は発電機も送電線も変電所も需要家も、全ての設備が一つの電気回路として繋がっていますので、エネルギーはどこでも一緒です。
だから設備容量一杯まで発電できないようでは、発電機としての役目は果たせません。
しかし、電力系統に繋いだ瞬間から、発電機と送電網は共同体となって、電気回路図が変わります。
送電に使う発電機によって需要家に届けることが出来る電力は、以下の「定態安定限界電力式」によって制限を受けてしまうのです。
定態安定限界電力P=(V・E・sinδ)/x
ただし、V:発電機の内部誘起電圧、E:需要家の電圧、sinδ:VとEの相差角による正弦、x:送電線のリアクタンス
つまり、V、E、xは比例定数としてほとんど変わらない数値ですので、Pを上げるにはsinδを1にする必要があります。
しかしそのためにδを90度に近づけようとすると、今度は「定態安定度」を崩壊させてしまうのです。
連鎖的に発電所が脱落するという現象を、一度は聞いたことがあるかと思います。定態安定度を軽視したまま発電出力を上げていくと、発電機の回転数(即ち系統周波数)を安定化させることができなくなって、次々と発電機が系統から切り離されてしまうのです。
このようなことを避けるために、安定度の観点から発電出力は制限を受けています。というか受けないといけないのです。
原発を全て無くすと、真夏の平均最大ピーク需要に対して18%程度は余っていますが、他の発電所の点検や修理による稼動停止は当たり前なので、ほとんどギリギリの状態です。
安定度には「過渡安定度」というのもあって、系統に事故が起きた時の周波数変動に発電機がどこまで耐えられるかを評価するものです。
これも定態安定度と同じく、いくつかの発電機を脱落させてしまう原因となります。
このような事情も考慮しないといけないので、「設備容量が十分あるから原発をなくしても電力は足りる」という言い方は出来ないのです。
もし足りるといえるのなら、それぞれの発電所のタービンの慣性モーメントや送電線の距離などを考慮して、エネルギー関数などによる定態安定極限や過渡安定極限を計算したはずです。
確かに、あと数十年以内に再び大地震が来ると予想されています。私も怖いです。
原発に使う核燃料のウランだって、既に約550万トン。年間の消費量は世界で7万トンと言われます。あと70年程度でウランは無くなってしまうそうです。
次の世代はどうするか、太陽光しかないと思います。
しかし、単純にバッテリーを作ればいいというものではありません。電力系統の特性に応えられるように、出力を一度バッテリーに貯蔵し、高品質な交流波形を出力できるVVVFインバーター設備を低コストで実現し、需要曲線に合わせて供給できるようなのが出来れば、と思っています。負荷率を向上させるためでもあります。
しかし、まだまだ夢だと思うのです。本当に頭が痛いです… 
・・・・・ ・・・・・

 この方は以下の理由から、まだしばらくは原発が必要だと言いたいらしい。

1.福島原発の事故は安全対策がいい加減だったり事故対策マニュアルがいい加減だったために起きた。

2.真夏のピーク需要に対する余剰はわずかであり、発電所の点検や修理などによる稼働停止を考慮するとギリギリの状態。

3.ウランはあと70年くらいで無くなると思われるので、次世代は太陽光を利用するしかないが、技術的にはまだまだの状態。


 1.の主張は完全に誤りだ。原発事故は安全対策や事故対策がきちんとしていれば100%防げるというものではない。事故の原因には人為ミスだってあるし、万一原発がミサイル攻撃などを受けたら終わりだ。それに、例えば震度7の揺れや、地震に伴う地盤沈下あるいは隆起に耐えられる原発を造ることなどそもそも可能だろうか? 高さ20〜30メートルの津波に襲われても問題が生じない原発などできるのだろうか? 原子力というのは事故を起こせばこのうえなく危険であり人間がコントロールできないことは明白だ。だから手を出してはならならないのだ。

 sayama氏は小出さんが「設備容量が余っているから無くしても大丈夫」と主張しているというが、それは不正確だ。小出さんの主張は  「電気が足りようが足りまいが原発は止めるべき」  である。


 結局、sayama氏が言いたいのは「現在の生活を維持するためには原発が必要」ということでしかない。こういう主張はいわゆる原発推進派、容認派の方たちがよく言っていることなのだが、その根底にあるのは「現在の生活スタイルを変えない」「停電はあってはならない」というスタンスだ。

 元記事に書いたように、もう一度原発が大事故を起こしたら日本は終わる。福島第一原発の事故の補償だけでもとんでもない額になるし、事故処理のための作業員だって足りなくなるだろう。さらに同じような事故が起きたなら、被害者への補償はおろか、事故処理だってできなくなる。そうなれば核戦争同然であり、日本は完全に終わりだ。

 sayamaさんも懸念しているように、近い将来日本は再び大地震に襲われるだろうし、そのときに原発事故が起きない保証などどこにもない。地震の巣の上に54基もの原発がある日本は綱渡り状態なのだし、いつ破局を迎えてもおかしくない。

 日本が終わってしまえば経済成長もへったくれもないのに、なぜ原発の稼働にこだわるのだろう。福島の大事故を目の当たりにしてもまだ懲りずに「原発が必要」という人は、責任感や反省というものが完全に欠落している。「汚染地域に率先して住み、汚染された作物を食べなさい」と言いたくなる。


 破局を回避するためにまずやらねばならないのは原発を止め、燃料をできるかぎり安全に保管することだ。電気が足りようと足りまいと、原発は止めねばならない。 「限られた供給電力で間に合わせる」 という発想の転換をすれば済むことだ。電気が足りないのなら、足りるように生活スタイルを変えるしかない。節電はもとより、企業の操業時間・曜日を工夫すればピーク電力を抑えることができるはずだ。暑い夏は始業時間を早めたり、昼休みを長くするのもいいだろう。

 昨年の事故直後、首都圏ではネオンを消し、照明を減らし、駅のエレベーターも停止させるなど、さまざまな節電対策がとられた。そういう努力を続けることは何も困難なことではない。清涼飲料の自動販売機を減らすだけでもかなりの節電になると思うが、実施される気配がない。私は昨年の夏に東京に行ったが、ビルも電車もしっかりと冷房が効いていた。冷房はもっと設定温度を上げるべきだとしか思えなかった。また、近年はオール電化住宅が増えてきたが、消費電力の大きいIHクッキングヒーターをガスに戻すような取り組みもしていくべきだ。

 今は緊急地震速報というのがあるが、緊急停電速報のようなものだって可能ではなかろうか。電力不足になりそうな状態になったら、テレビやラジオ、携帯電話で一斉に警報を発するのだ。「これ以上電気を使えば停電になる」という状況に置かれれば、無駄な電気は使わなくなるだろう。限られた電力でやりくりせざるを得なければ自然と節電が身に着くものだ。

 原発事故で土壌が汚染されたら農地も住宅も放棄し、故郷を捨てねばならない。被ばくして病気になったり亡くなるほど悲惨なことはない。それがチェルノブイリの教訓だ。毎日被ばくに怯え、放射線量や食べ物に神経をとがらせて生活することを考えたなら節電努力など何でもない。むしろ電気を使わないことで健全で健康的な生活が取り戻せることだってあるだろう。

 だいたい経済成長を続けなければならないという固定観念に縛られている人が多すぎる。なぜ、現状維持で満足できないのだろう。しかも、この先人口はどんどん減っていくのだから、経済は縮小するくらいでちょうどいい。

 以下のinti−solさんのブログ記事も興味深い。今年の寒波で、東電管内では4967万キロワットの最大電力を記録したそうだが、これは昨夏の最大電力の記録より多いという。ちょっと工夫すれば夏だって原発なしで十分にしのげるはずだ。

気がつけば、稼働中の原発は3基のみ

 私の意見に部分的に同調しながらも反対のことを主張するsayamaさんのコメントの意図は何なのだろうか? 原子力ムラの住民、あるいは工作員と疑われても仕方ないだろう